魔王か改革者か?揺れ動く織田信長のホントの姿

わたしが一番シックリくる信長像は『名将言行録』に書かれている内容がザ・信長という感じがします。それもそのはずで、ドラマや小説などで信長を扱うときにはたびたび『名将言行録』が参考文献として選ばれていたから。
しかし、1800年代後半に編纂され、入念な調査、検証を行ったわけでないので、史実を求めるには信頼性に乏しいのが事実。また、戦前や戦後の時代背景の移り変わりで『勤皇家』だったり『時代の寵児』とイメージが変わってきたのが織田信長でした。
そこで今回は、織田信長がどんな人物だったか考えてみます。
「破壊者」や「冷酷なカリスマ」としての信長像
戦前は信長に限らず、軍記物などをもとに戦国武将が語られてきたそうです。しかし、研究の観点からは限界があり、時代が進むにつれて古文書をもとに研究するスタイルが定着したようです。
かつての信長像は古い権威に縛られない改革的なイメージが強くありました。
これには太田牛一の『信長公記』やフロイスの『日本史』が信長のイメージ形成に影響を与えているといわれています。また、信長が自ら武田信玄にあてた手紙に「第六天魔王・信長」と名乗ったことで、恐怖と非情さの象徴として語られるようになりました。
ここまでイメージが定着したのは、比叡山焼き討ちを始めとする行為が信長の苛烈さを印象付けたのかもしれません。しかし、近年の研究では焼き討ちは「言われているほど大規模ではなかった」とも言われており、再度検証の余地があるようです。
合理的でビジョンを持った政治家
近年の信長評は明確な政治的ビジョンを持った人物だったように思います。
比叡山焼き討ちについても、単なる宗教弾圧ではなく武装宗教勢力が政治に介入することを排除しようとしたとも取れます。
経済政策でも楽市楽座・関所撤廃・城下町の整備などは、二番煎じではあるが良い物は積極的に取り入れる柔軟性も持ち合わせていました。また、かつては朝廷との関係も天皇に譲位を迫り、天皇を軽んじていると考えられてきまいしたが、朝廷を尊重していたという見方も登場しています。
織田信長の新しい秩序の形成

信長の築いた安土城は軍事拠点としてだけではなく、権威の象徴的な要素が大きいと言われています。キリスト教宣教師を城に招き、海外文化との接触にも積極的だったことから開かれた秩序への構想も見えてきます。
しかし、その革新性ゆえ信長の理想は、必ずしも周囲に理解されていたとは言えません。旧来的価値観の中で生きてきた家臣や大名にとって、信長の急進性は時に魔王のように見えたのかもしれません。
1582年、本能寺の変によって信長は非業の死を遂げます。長年、明智光秀の私怨による謀反とされてきました。もしかしたら、能力主義や中央集権体制の推進は既得権益層にとって脅威となり、信長の理想が誰にも理解されなかったことが、光秀の決断につながったのかもしれません。
まさに見る人から見れば、魔王にも見えるし理想の改革者とも見えるのが織田信長だったのかもしれませんね。