江戸の町に住む町人の職業別収入とその生活環境
1726年の江戸では人口が100万人を超え、ロンドンの63万人を超え世界一の町として栄えました。内訳は、職人や商人などの様々な職業を通じて、人口の半数ほどの町人たちが生活をしていました。
元をたどると、町人たちは武士の生活を支えるために移住した人たちで、さらに彼らの生活を補うために商人や職人が集まったのが江戸の町。
そこで今回は、江戸の町人たちはどんな暮らしをしていたのか、収入や生活環境を紹介して行きます。
サラリーマン商人は結構生活がきつかった
日本橋付近では商人たちがにぎわい、そこに多くの大店が軒を連ねました。
それらの店の多くは、社長がいる本店機能は、伊勢や近江みあることが多く【江戸店】と呼ばれていました。そこで働く奉公人は現代の会社組織同様に役職が定められ働いていました。
1662年に京都の材木商・木村彦太郎が創設した東急百貨店の前身、白木屋呉服店では、19世紀初頭に従業員数200人以上の企業までに成長しました。1687年頃の年商は89億円の大企業となっています。
組織は、経営側である【番頭】が3人置かれ、その筆頭が専務、他の2人は常務として機能していました。その下には、部長職である【年寄役】、課長職として【小頭役】が置かれました。
その部下たちは、12歳~15歳までの丁稚や若衆が商人を目指し店で修行しており、彼らは16歳以上にあると晴れて【手代】と呼ばれる平社員に昇格しました。
そんな、社員たちの年収が手代で年収120万程で、番頭で300万で決して経済的に恵まれていたとは言えませんでした。
江戸時代の職人は高給取りだった
徳川家康が関東移封した当初の江戸は寒村でしたが、三河や駿河・関東周辺から大工を始めとする職人が集められました。
彼らは職業ごとに集まって住み、職人町が形成されました。古地図などには、大工町、鍛冶町、木挽町などと言った町名があります。
職人の中でも道具を持って外に出かける出職と家の中で作る居職がいました。
その中でも、出職の大工・左官・鳶は【江戸の三職】として花形の職業でした。火事が多かった江戸では、彼らは引っ張りだこだったのです。
賃金は、現代の日給換算で27000円で年収で800万円にもなりました。
大工は最も高給で生活レベルも高く、大工の子供は習い事や歌舞伎見物をしていたようですが、マイホーム率は以外にも低く、賃貸暮らしが多かったそうです。忙しくて自分の家を作る余裕がなかったのでしょうか?
こうした建築職人たちは、大火があるたびに賃金が上がり、江戸の60%が消失した明暦の大火の後では、さらに給料がアップしました。そのため、幕府は腕のいい職人の賃金を上限を定めます。
しかし、この賃金制限によって職人町は衰退していきます。
また、畳職人や石材加工の【石切り】職人は日給15000円、ノコギリで原木を切る造材業の【木挽】が日給10000円。
こうした職人はすぐに高給取りにはなれるわけではなく、親方・職人・弟子と言った階級がありました。職人は親方から仕事を提供する代わりにピンハネされ、弟子は一人前になるまで長年の奉公と修行か必要でした。
江戸の物流を支えた飛脚と籠屋
幕府の公文章を運んだ飛脚を【継飛脚】と呼ばれ、二人一組で一人は【御用】と書かれた提灯を掲げてもう一人が文章を入れた籠を担いでいました。
庶民が手紙や書類・金銭、荷物などを運ぶ際も飛脚が担っていました。江戸の需要拡大で江戸の町専門の町飛脚も登場しました。
飛脚と共に江戸の輸送を担ったのが駕籠屋。
初期は庶民が乗る事が禁止されていましたが、しばらくして四つ手駕籠と呼ばれる簡素な町駕籠が登場すると庶民たちも利用するようになります。金額は『5キロで37000円』とかなり高価にもかかわらず、見栄っ張りの江戸っ子にはなくてはならないものだったようです。
江戸時代の医者も高収入
今も昔も高収入なのが医者。現代は、年収1000万円を超えますが、江戸の町ではどうだったのでしょうか??
この時代、医者の資格は当然なく法律上では誰でも医者になる事は出来ました。
そのため、収入も様々で幕府や藩に仕える医者と町医者と分けられています。町医者は、駕籠を使用する許可を得ている乗物医者とお供の徒歩医者がいました。
医者によって、薬代は変動しますが、一両で300服相当の薬が買え天保年間では120服相当に値上がりしました。
江戸時代のカリスマ美容師【髪結い】
髪結い専門店は、3代将軍・家光の時代に誕生しました。
湯上り客を狙って湯屋の近くに開業する事が多く、その開店費用は5000万近くかかったようです。当時の流行・マゲスタイルは、額の月代を剃り、髷を結い直し、眉の手入れや耳掃除もしてくれて、32文が相場でした。現在の価格で2400円という事で、現在の理容料金程の価格となっています。
武士を始め、ほとんどの人がマゲを結っていたので、髪結いの月収は60万円と一般の人よりは高額所得者でした。
ヤフークリエイターズでちょんマゲの記事を書いてるので良かったどうぞ。
江戸時代の武士が薄毛(ハゲ)で髷を結えなくなったらどうしていたのか?
町人のために商品を売り歩く行商人
江戸の商人の中に、特定の店を持たずに商品を売り歩く行商人が多くいました。
その中でも天秤棒を担いで売り歩く棒手振りは、江戸の庶民たちには無くてはならない存在でした。野菜や魚、豆腐、漬物と言った食品を毎日売り歩き、人々はその日の食べる分だけ購入しました。
針や糊などの日用品や錠前直し、鑑磨きなどの生活サービスを行う者もいました。
棒手振りの一日は、早朝に仕入れ用に700文借り入れて商品の仕入れをします。肩に食い込む天秤棒の重さに耐えながら、声を張り上げて商品を売ります。
日が傾くまで働き、稼ぎは500文程度で現代に換算すると37000円程。
その中から、食料品や家賃を支払い、お土産に子供のお土産を買えば、手元に残るのは200文ほどです。それを借金の返済をしたり、酒を飲んでしまえばあっという間になくなってしまいます。
【江戸っ子は宵越しの銭はもたねぇ】と言うが、持てなかったと言うのが実情のようです。