太平洋戦争時には不死身の日本兵がいた!?
戦争時には畏怖や尊敬の念を込めて多くの二つ名をつけられる人物が出てきます。『独眼竜』『鬼島津』など、戦国武将たちによく二つ名がつけられていますよね。
そんな様々な二つ名の中でも特に異彩を放った異名を持つのが舩坂 弘氏です。
不死身の分隊長、生きている英霊、鬼の分隊長など多くの二つ名を持っています。どんな人生を歩んでいったのか少し調べてみることにしました。
なお、舩坂弘氏の赴任先で起こったアンガウルの戦いについては以前書いた記事に載っています。日本側の戦力1,250名のうち、戦死が 1,191名、捕虜が 59名。非常に厳しい戦いだったと言われています。
※参考にするとしたら本人による自著…しかもすでに絶版になっており手に入りにくい状況のため、インターネット上の情報をまとめたものになります。ただ、このような方もいらっしゃったということをお伝えしたくて記事にまとめました。そこら辺を差し引いてご覧ください。
舩坂弘氏はどんな人物?
『戦史叢書』という書物をご存知でしょうか?現在の防衛省防衛研究所の前身である防衛研修所戦史室によって公刊された公的戦史と言われています。
この公的戦史に唯一個人名として載った人物なんだそう。これだけでも凄いのですが、なぜ個人が戦史に載ったのでしょうか??
幅広い武道や射撃の技能に長けていたことも舩坂氏の凄さの一つ。
- 特別銃剣術徽章
- 特別射撃徽章
- 剣道六段教士
- 居合道錬士
- 銃剣道錬士
これだけの技能を習得されていたそうです。 最初の赴任先の満州では、射撃で30回以上の賞状・感状を受けています。射撃と銃剣術の徽章を同時に受けたこともあり、満州時代から隊内でも屈指の軍人で部下からの信頼も篤かったと言われています。
が、彼の凄さは武芸に秀でたことだけではありません。むしろ不死身と言われた所以の逸話が人間離れしすぎているため、武芸の腕が霞んで見えるほど…
実際に何故そのように言われるようになったのかを見ていくことにしましょう。
舩坂弘氏が不死身と言われる所以とは??
舩坂氏は戦況の悪化により最初の赴任地である満州から南方動員令でパラオ・アンガウル島へ移動しています。
アンガウルで激しい空爆や艦砲射撃を受けている中で舩坂氏は水際作戦の際に擲弾筒や臼砲を討ち続け200名以上の米兵を殺傷しますが、戦闘開始から3日目には左大腿部に砲撃を受け裂傷を負います。
銃弾が飛び交う中ですから日本軍も助けに行くことができず、しばらく放置されてやっと軍医による診断が…ところが、傷を見るなり自決用の手榴弾を手渡されたそうです。軍医も見捨てるほどの大怪我でした。
医者がダメだと諦めるほどの怪我を負いながら、持っていた日章旗で止血し這いずって自軍陣地へ戻り一晩休むと翌日には歩けるようになっていたといいます。その後、何度も瀕死の重傷を負うも、やはり翌日には動けるまで回復していたそうです。ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質」とその理由を語られています。
そんな舩坂氏でありますが、腹部に銃弾が残る怪我(腹部盲管銃創)を負い、その傷周辺に蛆が湧くようになったのを見ると自決を覚悟されたそうなのです。ところが、その自決用の手榴弾は不発に終わります。
この状況下、舩坂氏はある決断を下します。
死ねないのなら、せめて敵に一矢報いるため 米軍司令部へ単身斬り込み を実行しようというものです。
手榴弾6発に拳銃1丁を携えて匍匐(ほふく)前進を開始。4日目にして米軍指揮所テント群から20m 付近への潜入に成功します。
この時点で
- 左大腿部裂傷
- 左上膊部貫通銃創2箇所
- 頭部打撲傷
- 左腹部盲貫銃創
- 右肩捻挫
- 右足首脱臼
- 全身 20箇所に及ぶ砲弾の破片による怪我
- これまでの戦闘による火傷
と満身創痍でした。
すぐに動けるよう戦闘に備えてから、舩坂氏は渾身の力を振り絞って米軍の前に立ち上がります。長時間の匍匐前進で擦り切れた服を身につけた満身創痍の日本兵。その異様な光景にしばらくは動揺が広がっていたそうです。
そんな中で舩坂氏は動きますが、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間に頚部を撃たれて昏倒。野戦病院へ運びこまれ、戦死と診断されます。
そのまま舩坂氏は死体安置所に遺体として運び入れられたのですが、なんと
三日後に息を吹き返します。
人間離れしているにも程があります。
こういった様々な逸話が不死身の所以になっています。蘇生後は情けをかけられたとして暴れたそうです。
捕虜となったその後
アンガウル島で捕虜となった後は尋問を経て、ペリリュー島の捕虜収容所へ身柄を拘束されています。
身柄を拘束された後も闘志は衰えておらず
- 所属が分からないように福田と名乗る
- 捕虜になった2日目には(重症者で監視が緩い隙を狙って)収容所をこっそり抜け出し日本兵の遺体が持っていた小弾銃の火薬を用いて米軍の弾薬庫の爆破に成功させ、翌日には収容所へ戻って点呼に応じる
- 2回にわたる飛行場炎上計画(収容所の伍長によって阻止されている)
など、捕虜になった後も個人で戦っていたそうです。米軍の立場から見れば『とんでもないこと』をしでかそうとしていますから『グンソー・フクダ=要注意人物』として目をつけられていました。結局、舩坂氏が帰国できたのは戦後の1946年。ペリリュー島だけでなく、グアムやハワイ、サンフランシスコなどを捕虜として転々とした後ようやく帰国しました。
アメリカ各地を転々としたことで先進性を目の当たりにした舩坂氏は、帰国後に建物すべてを使用した大盛堂書店を開業。生涯を書店経営で社会に貢献するとともに、パラオなどの太平洋諸国で鎮魂のために慰霊碑建立に尽力されています。
さらにパラオ原住民に対する支援や日本との交流開発、戦没者の調査と遺族への連絡なども精力的に行い、2006年2月11日に85歳の生涯に幕を閉じられました。
なお、舩坂氏の実家には(名前を福田と名乗っていたため)1944年末に戦死広報が届いていたため、戸籍上、一旦は死亡扱いで墓標も立てられていたそうです。帰国後一番最初に行ったことが墓標を抜きに行ったこと。しばらくは幽霊じゃないかと周りから思われていたみたいですね。
戦史叢書について
戦後7年間はGHQによる占領期間があって日本独自の戦史作成が否定されたため、
- 動き始めたのが1955年からと出遅れた
- 旧陸海軍の対立が戦史を作るにあたっても引きずっていた
- 書いたのは身内。執筆者が参謀職が多く、参謀視点が目立つ
などの問題点もあります。
特に今回の件で関係しそうな問題点では
旧軍戦史に見られた「勝利をたたえ戦功をほこっている」書き方
がされていると指摘があるので、舩坂氏に関しても多少盛っている部分があるかもしれません。それでも日本で唯一の公式な戦史です。個人が戦史に載る事態がとんでもないことだと思います。
舩坂弘氏に限らず、シモヘイヘやルーデル、坂井三郎にハルトマンなど枢軸国側に凄すぎる兵が多くいるのが気になります。連合軍にもいるにはいるけど。
やっぱり「これだけ強い兵がいても勝ち取った」っていう連合国側のプロパガンダ的なものと「負けたけどこれだけ善戦した」っていう枢軸国側のせめてもの(言い方は悪いけど)慰めが合わさって伝わった話なんだろうか?と思ったり。交代要員が少なく追い詰められたことも大きいんでしょうね。
そう思わないと不思議なくらい人外の活躍をされています。面白いので気になる方は是非調べてみてください。