肥前の妖怪・鍋島直正の生涯
明治維新の功労藩の名を表す『薩長土肥』の『肥』は『肥前』すなわち『佐賀』を指しています。その中でも『肥前の妖怪』という二つ名を持つ鍋島直正は希代の名君としても知られています。
今回はそんな佐賀藩の取り組みと蘭学狂いとまで言われていた鍋島直正に迫ります。
鍋島直正が藩主になる前の佐賀藩
正直、かなりの火の車状態と言えましょう。
外様大名が治める佐賀藩は江戸への参勤交代だけでも諸藩に比較すると経済負担が大きくなります。その江戸への参勤交代だけでなく、当時、唯一の外国との貿易が許されていた長崎と距離が近いことから福岡藩と1年交代で警備を担当しています。この警備もまた財政を圧迫させるものでした。
その財政を更に悪化させたのが1808年イギリス軍艦によるフェートン号事件です。
※フェートン号事件とは…
1808年にオランダ国旗を掲げてイギリス軍艦が長崎港へ侵入してきた事件です。
1800年代と言えばヨーロッパではナポレオンが暴れまわっていた時代。オランダはフランスに接収され本国がなくなる事態となっていますが、幕府にその事実を伝えることはありませんでした。
イギリスは当然フランスと対立中。オランダ船(イギリスから見ればフランス船)拿捕のために長崎港へ侵入したと言われています。
佐賀藩はこの一件で軍備増強の必要性を認識し長崎港に砲台を増設したため、ますます困窮。1817年には参勤交代の必要資金も捻出できない事態に陥ります。 しかも当時の藩主斉直は派手好きとしても有名です。
更には1828年の台風直撃に直正の正室に将軍・徳川家斉の娘を迎えた時の婚礼費用。佐賀藩の懐事情は推して知るべしというところでしょう。
鍋島直正が跡を継ぐ
そんな厳しい事情の中、1830年に直正が家督を継いだ直正は(父は隠居)入部のために江戸から佐賀へ向かう途中で借金返済を迫る商人達により行列が停止したという苦い経験をしています。この一件もあって藩の財政改革をより強く決意したそうです。
当初は隠居した父が力を持っていたため倹約令を出すにとどまりますが、1835年以降は本格的な改革を行うように。
- 人員の整理、役人の3割をリストラ
- 今まであった借銀の実質踏み倒し
- 農村の復興、有明海の干拓 ⇒ 石高がほぼ倍増
- 藩校・弘道館の拡充(=人材育成。大隈重信ら多くの逸材が育っていきました)
- 医療学校の設置(日本で初めて医者を免許制に)
- 殖産興業(陶器・白蝋・小麦・茶・石炭産業)の推進
これらの改革で財源や人材が拡充されました。教育熱心な藩という後世からの評価もこの改革があったために言われているようです。
そんな最中、隣国からアヘン戦争の情報が入ります。佐賀には炭鉱がありましたのでアヘン戦争を機に需要の多い石炭を輸出し外貨獲得へ乗り出します。と同時に過去の苦い記憶もあり危機感も募らせていきました。
軍備の近代化
鍋島直正は長崎港で何度か外国船籍の商船や軍艦を視察しています。藩主としては異例でしたが、自ら外国の科学技術力を目の当たりにして外国の脅威を実感したことが直正の政策・方針に強く影響を与え、幕末で大きな軍事力を有する藩として名を上げることに繋がります。
まず始めに何から取り組んだのか?
当時主流であった青銅製の大砲をより威力の高い鉄製のものに変えることが一つの目標でした。が、当時の日本の製鉄技術では安定した品質の鉄を作れず鉄製の大砲を作るだけの水準にありませんでした。
そこで行ったのが築地(ついじ)反射炉の建設です。
佐賀県は今でも唐津・伊万里・有田といった焼き物で有名な産地。江戸時代にも同様でした。窯を作るノウハウは既に持っていました。更に藩内の学者・鋳工・刀鍛冶ら総動員で質の高い鉄を作り上げ、ようやく国内製の鉄製大砲の作成に成功します。これが1852年、ペリー来航の1年前の出来事でした。
ペリー来航とロシア・プチャーチンの来航がもたらしたこと
1853年、幕末の始まりとなったペリー来航。その対応のため幕府から鉄製大砲の依頼が舞い込み、品川砲台(現・お台場)に複数門の大砲が設置されています。
その約一か月半後、ロシアからプチャーチンが長崎へ来航しました。
プチャーチンは清ーイギリス間で(強硬に)締結された南京条約による『清国の開港』がロシアにも影響を及ぼすだろうと極東政策の必要性を皇帝に進言した人物です。結局、1843年に清と日本に遠征隊を派遣する予定がロシアの抱えていた対トルコ問題と財政難から反対に遭い延期となりましたが、アメリカの蒸気船団が日本へ向かう情報を聞き来日する運びとなっています。
プチャーチンは日本通のドイツ人医師シーボルトのアドバイスもあって長崎に入港。その際、蒸気機関車の模型を用意しています。
この時に佐賀藩からは中村奇輔・田中久重・石黒直寛が乗船しており、日本国内で初めて蒸気機関車の模型を見学。彼らは精煉方(佐賀藩の1852年に設置された反射炉や蒸気機関等の研究・開発を行う機関)で役人をしていた人物です。
※なお、田中久重は東芝の前身・芝浦製作所の創業者です。
その一年後、浦賀へペリーが再度入港した際、幕府もアメリカからの手土産として持ってきた蒸気機関車の模型を目撃することに。佐賀藩の役人らが模型を見学してから1年が経った頃のことです。
その間にも佐賀藩は石炭の大量輸送が経済的実力を備えるための手段になり得ると考え、輸送手段の近代化をはかる蒸気機関の研究を進めていました。その先には富国強兵のプランも見えています。
勿論、一度見ただけで作れるわけではありません。オランダの書物の中に蒸気機関の仕組みが書かれた書も参考に試行錯誤を重ね、幕府が見た一年後には模型を作り上げたようです。
なお、輸送手段と軍備の近代化の必要性を感じていたのは佐賀藩だけではありません。福岡藩もほぼ同時期に蒸気機関車の模型を作り上げていますし、長州藩や加賀藩が蒸気機関車模型を購入した記録も残っています。
そんな研究・開発を積み重ね、蒸気機関車の模型だけでなく蒸気船・アームストロング砲・電信機の製作、ガラスや写真機など...様々な近代的な機械を作り上げていったのです。
その後、明治に入ると鍋島家管理で精煉社という民間会社に移行。鍋島藩での精煉方の役割を終えていきます。
鍋島直正を育てたものとは??
直正は長崎・出島の防衛だけでなく、ロシアとの関係性から北海道が重要だと幕府に進言もしています。
- 国防をどうするか?
- そのために必要なものを揃えるにはどうするか?
国全体や先々を見据えた上で藩政を担っていました。
ここまで先見性を備えた藩主になれたのは、これまでに書いてきたように佐賀藩という地理的に出島に近い環境、そしてフェートン号事件に父親の散財だけでなく、フェートン号事件を猛省した佐賀藩士・古賀穀堂の存在なしでは語れません。
穀堂は藩校の教授として働いていた人物。儒学だけでなく、西洋の学問も学ぶ必要性を藩に訴えてきた穀堂が当時江戸に住んでいた直正の教育係に抜擢されています。彼は講義をして教えるのではなく、考えさせる授業を行っていました。特にフェートン号事件は何度もディベートのテーマとして取り上げられていたようです。
最近になって教育方法の一つとしてグループディスカッションやディベートの必要性が叫ばれていますから、当時としてはかなり先進的だったと言えますね。
そんな穀堂からの期待を一身に受け、直正は
「大人でも及ばないような議論ができ、『藩のためには死んでも構わない』とまでおっしゃるほどだ。素晴らしい主になられるに違いない」
穀堂は友人に宛てた手紙で絶賛した。
ほどに成長したと言われています。 更に、直正を支えるため若手藩士の教育機関も江戸に作らせています。
直正はそんな穀堂の教えを守りながら、藩政を敷いていきました。
強大な軍事力を持ちながら幕府の滅亡直前まで傍観者を貫いた佐賀藩は、明治政府の中核を担う長州藩出身者たちから疎まれていたと言われています。それでも優秀な人材を多く抱え、さらに軍備だけでなく生活用品等の近代化の基礎技術を持っていた佐賀藩の存在感は維新後にも大きいものでした。
そんな佐賀藩を育てたのは他でもない鍋島直正。希代の名君と言われるのも納得できる気がします。