戦国時代の大名と家臣との関係
応仁の乱以降、下剋上の風潮が高まっていき、守護大名の代わりに国を治めていた守護代や国人達が守護大名に代わり国を治めようと独立して戦国大名として成長していきました。
この時代、戦国大名たちが自分たちで作り上げた支配地を領国と呼び、その支配体制を領国支配と呼びます。
各戦国大名による領国運営の私のイメージは、
- 専制君主制で戦国大名が独断で運営をしていた
- 家臣は戦国大名に絶対服従
- 能力があれば身分が関係なく出世は可能だった
と言う、イメージを持っており、当時のことを調べていくにつれて実際は全く違うことが分かりました。今回は、そんな戦国時代の大名と家臣の関係を書いていきたいと思います。
戦国大名のタイプ
戦国大名には出身によりいくつかのタイプに分かれます。
- 守護大名から戦国大名になったタイプ
- 守護代から戦国大名になったタイプ
- 地方の国人から大名になったタイプ
1のタイプは、室町幕府の【守護大名】がそのまま大名になったタイプです。武田信玄や今川義元がこれに当たります。国の運営は、譜代の家臣の意見を会議の場で聞く合議制を採用していました。
2のタイプは、無能な守護大名が守護代に領国の実権を握られることでのし上がった大名です。上杉謙信の上杉氏や織田信長の織田家などがそのタイプでした。また、大名の愚行に切れた家臣がクーデターを起こす事なんかもあります。大内義隆や細川晴元なんかの大名は、家臣によって殺されています。
これらの大名は、昔からの守護大名や守護代が何らかの形で大名になったパターンで、いわゆる老舗の大名といったところでしょうか?
3のタイプのような地方の有力武士である国人達の中から 頭角を表して大名になったタイプは、毛利元就や徳川家康がこれに当たります。
国人タイプの大名の場合、重臣たちは一応配下なのですが、大名との関係はきわめて並列に近い関係でした。そのため、重臣の中には主君にタメ口を聞いていた者もいて、代表権は主君にあるが、実際の国の運営は共同に行っていたイメージでしょうか。
戦国時代の大名は専制君主制ではなかった
有力大名の多くは、有能なナンバー2という人材がいました。
織田信長は、秀吉や光秀。上杉景勝に直江兼続などといった国の運営を任せられる人物でした。この時代は、江戸時代より身分の固定がされていなかったため、大名と家臣比較的対等で、家臣が主君に自由に意見が言えました。
下の者が色々と意見を言えたと考えると、現代の企業より進んでいたのかもしれません。
以上のことを考えると、戦国時代の大名は専制君主制のイメージがありましたが、そんなことはないのだと分かります。
独裁的にやっていたら、切れた家臣が自分の命を狙ってきますからね…
武将の転職が当たり前で農民の圧力がすごかった
戦国時代の大名と家臣は、主従関係というより現代で言う労働契約に近いものでした。家臣は大名から【禄(給料)】を受けることで契約が成立します。そのため、自分の働きに比べて評価されない、報酬が少ないとなれば、より良い待遇の大名家へ行ってしまいます。今でいうと、転職ですね。
戦国武将の藤堂高虎は何度も主君を変えており戦国の転職王とも呼ばれています。
天下を取った秀吉も、信長に仕える前は他家の家臣でした。
当時の武将たちは、他の大名家へ行くために夜逃げ同然でいなくなるということもあったそうです。また、逃げられる側の大名も再就職の妨害をしたり、捕まえて処刑するなんて事もあったようです。転職も自由ですが、妨害も自由だったのです。
適正な評価をしないと、優秀な人材が出て行ってしまうので、各大名は家臣が満足するだけの褒美を与えて機嫌を取っていました。あの武田信玄も、【自分の落ち度があればいつでも言ってください】と法律に記載したほどです。
徳川家康にの家臣団は良く尽くしたと言われていますが、その実態は不良集団とも言われていました。一向一揆が起きれば一揆側につき家康を討とうとし、秀吉の誘いがあればすぐに裏切り秀吉についてしまうと言う不良っぷりだったそうです。
家臣からしてみれば、徳川家は自分たちが支えているという自負があったのでしょう。
家康からしてみると、いつ謀反を起こされるかわからない状況で、領国運営を行っていたのです。家康に限らず当時の大名達は、相当のストレスの中で国の運営を行っていたのが分かります。
また、家臣だけではなく農民も殿様によく反旗を翻していました。とくに年貢に不満があると、農業を放棄して村ごと雲隠れなんて事もざらにあったようです。年貢が入らないと一番困るのは国を治めている大名なのです。
そうなると、大名は妥協をしなければいけなくて、代官を通じて年貢を下げるから戻ってきておくれと頼むのです。不当労働を強いると労働組合を作りストライキを起こして給料アップを要求するみたいなものですね。
現代人もそれくらいの行動力があればよいのですが…
この時代の大名は、家臣から農民まで周りに対して常に気を使わなくて行けなくて、江戸時代の大名に比べると圧倒的に扱いが違います。部下に甘い顔ばかりしているとなめられるし、能力がないと見限られる。実は戦国大名は割のいい仕事ではないのです。能力があっても、嫌われれば信長の様に殺されてしまうのだから、やってられません。
戦国時代は大名に絶対服従なんて嘘っぱちです。
当時の出世概念を変えた信長の成果主義
秀吉のイメージなんでしょうが、戦国時代は能力があればどんどん出世してやがては天下人に…なんて思いますが、秀吉の例はレアケースです。
この時代の大名家では、家臣の序列が決まっており、譜代の大名を飛び越して軽輩やよそ者がその人たちより偉くなるなんてことはありません。戦で手柄を立てれば褒美こそもらえますが、それだけです。新参者に、広大な領土や権限などが与えられることはまずありません。
秀吉のようなレアケースが出てくるは、この時代では織田信長の家臣に限られた話なのです。この革新的なやり方が弱小国家だった織田家を天下統一手前まで持っていったと言ってよいでしょう。今で例えると、目の前の高い報酬を餌にモチベーションを高める外資系企業に近いと言えます。
また人を解雇するのも躊躇なくおこなっていました。譜代の重臣佐久間信盛を使えないと分かると、【死ぬか、高野山に行って坊主になるか】と迫られた結果、高野山に入ります。やはり織田家は、ブラック企業なのか?と思うところですが、一方で成果を出せば家柄も関係なしに出世させているのだから、ある意味このやり方はフェアかもしれません。
本能寺で裏切った明智光秀も、浪人の身から信長に召し抱えられて、一国を治める大名にしてもらったのです。この信長の革新的な領国運営が、天下人豊臣秀吉を生み出したとも言えるでしょう。