将門記に載っている菅原道真と平将門の関係
平将門について書かれたのが将門記。この将門記に少し意外な人物の名が載っています。
その人物は菅原道真で学問の神様として有名です。
平将門の変が起こる30年以上も前に亡くなった菅原道真が何故出て来るのかを見ていこうと思います。菅原道真が平将門の乱でどのように登場するのかを見ていきましょう。
平将門の乱と菅原道真
『将門記』には、将門が新皇へ即位する際に八幡神が巫女に神懸かり(神霊が人に乗り移る事)して、菅原道真の霊魂を仲介。その地位を将門に授けたという内容が載っています。また、『吏部王記(りほうおうき)』には、927年に道真の霊魂が彼の息子(菅原兼茂)の下に現れて「朝廷に大事件が起こる」と語ったとも記載されています。
そもそも将門が身を滅ぼしたのは、武蔵権守・興世王(おきよおう)と常陸介(掾)藤原玄茂(ふじわらのはるもち)らの謀り事が原因とするという旨が『将門記』には載っていますが、この二人が菅原道真の霊魂を持ち出したのでは??という説があったりします。
菅原道真が持ち出された理由としては…
- 道真は策謀にはめられた末に憤死しており、謀反を企む将門にとって都合の良い人物だった
- 平将門の生まれた(と思われる)年と菅原道真が亡くなった年が同じで「菅公の再生という評あり」とされている(明治40年『平将門故蹟考』の記述より。信憑性は不明だが、平将門と菅原道真を配祀する940年に創建された築土神社の伝説として残っているそう)
- 909年には菅原道真の息子・景行が下総守として東国に赴いていて、将門の一族とは交流があったと考えられていること
- 藤原玄茂と菅原道真の息子・菅原兼茂はほぼ同時期(あるいは入れ替わりで)に国司だった可能性があること
- 菅原兼茂は938年までに常陸介として既に東国に赴いていて、常陸の官物に損害を出したとして勘解由使から補てんするよう書類を出されていた記録が残っている (⇒通常は国司の任期満了後に出される書類=将門が一族と争っていた時期と国司だった時期が一致)
藤原玄茂が私授で常陸介となったのが菅原兼茂と同時期だったとしたら、菅原兼茂は玄茂にとっては非常に邪魔な存在になるのではないでしょうか??
朝廷や中央の政権に対して恨みを持ちそうな人物やこれまでにも怨霊にされた人物は多くいたにもかかわらず菅原道真が持ち出されたのは、兼茂が邪魔な存在だったのに加えて、将門とその一族が菅原氏と交流があったと思われている点なども一因になりそうですね。
もちろん単純に時代が近く、怨霊騒ぎの時期と重なっていたという事もあり得ます。903年に菅原道真が亡くなり、906年に菅原道真を左遷させ死に追いやった首謀者の一人藤原定国の死を皮切りに関係者たちが次々に亡くなり、930年には内裏に落雷まで発生しています。
そんな訳で怨霊の恐怖が拭い去られる前に朝廷を混乱に陥れる平将門の乱が起きたわけですから、ひょっとすると怨霊が平将門の乱を引き起こしたなんて考える人がいてもおかしくないです。
その辺の事情が平将門と菅原道真とを結び付けたのかな?と思います。