戦国時代

戦国時代に人口が増えていた?

日本の総人口は、外国人も含むと約1億2千万います。

昔から比べると途方のない数字になりますが、それでも2010年に比べる約90万人人口が減っており、2050年には一億人を下回るのではないかと言われています。

そんな人口減少傾向にある日本ですが、日本の歴史を見ているとあるタイミングで人口が増加傾向にあった時代があったようです。

 

それが戦国時代・・・

争いごとが多い戦国時代は、たくさん人が死んでいくイメージがあるので、人口がどんどん減っていると思っていました。しかし、実際には人口が増加傾向にあったようです。

そこで今回は、戦国時代の人口増加について書いて行きたいと思います。

 

戦国時代の人口

日本での戦国時代と言うと、応仁の乱(1467年)から約150年続いた乱戦とほとんどが認識しているのではないかと思います。世は 戦国時代、下剋上の時代です。おおよそですが…

1450年日本の総人口・・・約1000万人

1600年日本の総人口・・・約1600万人

この間、一旦人口の減少が見られるものの再度人口が増えています日本の人口統計 – Wikipedia)。

 

絵で見る、シッカリかつ分かりやすい応仁の乱 応仁の乱は1467年に京都を中心に、8代将軍・足利義政の後継者争いが発端とし東軍・細川勝元 と 西軍・山名宗全 の陣営に分かれ、互い...

 

なお、1450年~1480年の間には長禄・寛正の飢饉(1459-1461年)と呼ばれる飢饉があり、1461年最初の2か月の京都だけで8万2千人の死者を出したそうです。幕府による飢饉の対応が問題となり、応仁の乱を誘発する一因ともなっています。

そして1600年というと天下分け目の関ヶ原の戦いがあった年です。それ以降は、徳川が幕府を開いて200年以上平和な世の中が続きます。

江戸幕府が開かれるまで合戦続きで戦死者や食糧不足で人口が減っているかと思いきや、1.5倍くらい増えています。

 

わかりやすい関ケ原の戦いの経緯と合戦までの流れ 織田信長の突然の死によって天下統一の機会を捉えた豊臣秀吉は、子飼いであった旧信長の家臣をも取り込み、見事に天下統一を果たします。 ...

世界の人口

ところが世界を見てみるとどうも様子が違うようで、戦乱の続いた中国の三国時代には人口がなんと86%も減少したと言います。後漢末期(157年)には約5600万人いた総人口が、三国時代には約818万人になる位まで減少したそうです。

 

一方でヨーロッパでは・・・

100年戦争で有名なイギリスとフランスの長期にわたる争いで双方多くの人口を失っています。戦争と略奪によって農村は壊滅的な状態。更に追い打ちをかけるように、ペストが大流行してイギリス・フランスの人口の3分の1が感染死しています。その失った人口を回復するのに300年かかっています。

 

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戦国時代に人口が増えた理由

では、なぜ日本では戦乱時期に人口が増えたのでしょう?

戦争をすると農民が戦争に参加し戦死者も出し、食料が減るはずなのに何故? 人口が増える理由が何点かありますので書き出してみます。

農業技術の向上による生産量の増加

畿内地方では「米⇒麦⇒蕎麦」の三毛作が行われていました。
灌漑技術の向上で、用水路の建設と水車の使用で水田に入れた水を速やかに出して、水田を乾燥させることが可能となり、水田を畑に転換する技術が進化して行きました。

また、農業を担う農民たちの農具の進化も農業技術の向上に一役買っています。技術向上は農具だけにとどまらず、栽培をする農産物そのものも災害に強い、それぞれの気候条件にあった物に品種改良がなされることになります。

農民・商人の自治権が発生

鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出が可能になりました。

庶民の社会的地位が高まって、商工業の発展に伴い、庶民たちが文化の担い手として登場してきました。

豊臣秀吉のように農民出の人が身分を超えて活動が許される時代になったのです。

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経済と流通の発展

京都の西陣では明から輸入した生糸を利用して高級織物である西陣織がつくられたのもこの時代です。この頃から流通も活発になってきます。

農民=兵士だった

各国の武将たちはその農民たちを保護して穀物の生産力を高めています。穀物の生産力を落とすような真似は避けたかったのでしょう。

信長から秀吉・家康へ…兵農分離の目的と身分の確定 一般的に兵農分離は、豊臣秀吉が太閤検地、刀狩、人掃令を出して身分をはっきりさせた政策の事を書かれることが多いですが、その基本的な事は...

当主同士の争いで下が関係しない

当時の戦争は全て領主同士の問題で、相手に自分を認めさせ権力を得るための戦いで、民族間や宗教間の戦いではありません。目的は大将クビそれだけです。大将の首を取るか、降参させればよかったのです。農民である兵士の首をとっても手柄になりません。

しかも、中国などの城郭都市の場合は負けたらその都市で暮らす全員の命が危険でしたが、日本では戦で必死なのは武士であって農民は弁当片手にスポーツ観戦さながら戦見物をしていたようです。農民である兵士は危なくなったら遠くに逃げて気楽に見ていたと言います。

 

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簡単にまとめると・・・

戦乱の時代=各地の大名が国力増大に努める

↓↑

開拓が進み、農業生産が増え人口増加

↓ ↑

自治単位で富国強兵をするように

誰をボスに据えるかで争う時代なので、富国強兵をするためにも徹底して人を殺す理由はありません。また、民族の存亡をかける戦争というわけじゃないので、一族全員が殺されることなんかありませんでした。

これらが理由で戦国時代に人口が増えていたようです。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。