まずは三国志のあらすじをよんで流れを掴んでみよう!!
今ではスマホゲームなどでも題材になっている三国志。良く知らない人でも一度は聞いたことのあるワードではないのでしょうか??
実は、小学校の歴史を習ったことのある人は一度は三国志に触れているのは皆さんご存じでしょうか??
弥生時代の日本について書かれている中国の歴史書『魏志倭人伝』ですが、歴史の教科書では「邪馬台国の女王・卑弥呼」が中国に使者を送ったというような内容が書かれています。
この魏志倭人伝が三国志の歴史書の一部分であると言う事を知っているのは、知らない人が多いかもしれません。
wikiでも
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
Wikipediaより引用
と書かれており三国志と呼ばれる歴史書の一部であることがわかります。
私が歴史を好きになったのも、歴史シミューションゲームの三国志がきっかけだったりします。一度書き始めると止まらなくなりそうなので、あえて三国志を題材にした記事を書いてきませんでした。
ブログを始めて7年~8年たった現在。記事の充実してきたのでそろそろ、良いだろうとこの記事を機に集中的に書いていこうかと思います。
そんな記念すべき三国志記事第一回目は、三国志のあらすじを書いて流れをつかんでもらおうと思います。
日本でもおなじみの三国志
3世紀ころの中国では【魏】【呉】【蜀】の3つの国に分かれていました。この時代を歴史的には三国時代と呼んでいます。
この時代の出来事を記録した史料が『三国志』で『魏志』『呉史』『蜀史』に分かれており、各国の人物が多く書かれています。
教科書でおなじみの『魏志倭人伝』は【魏国の歴史書・倭人についての記述】と言う意味なのです。日本列島では、弥生時代で稲作を中心として文化だったころに、おとなりの中国では三国志の英雄たちが広大な大陸を駆け抜け戦い、様々な策略を巡らせていました。
私たちがよく目にする三国志の物語は『三国志演義』と呼ばれる明の時代に書かれた中国の歴史小説がもとになっています。この物語では蜀の皇帝・劉備を主人公として書かれており、『西遊記』や『水滸伝』と共に中国では人気となっています。
日本でこの演義をアレンジした吉川英治の小説『三国志』をヒットさせると、それを基に横山光輝の漫画・三国志やおなじみの歴史シミュレーションゲームが誕生し、当時の私のような子供達にもなじみのある作品が作られました。
前置きが長すぎましたが、ここから本題のあらすじに行きましょう。
黄巾の乱と董卓の台頭
西暦2世紀頃。中国大陸では高祖劉邦の子孫が君臨した後漢王朝でしたが、この時期には天下は乱れ傀儡政権と化していました。
幼い皇帝が次々と即位して政権には宦官と外戚の勢力が握るようになっており、政権争いと腐敗が進んでいたのです。そんな政権で善政が敷かれるはずもなく、民衆の疲労と不満は頂点に達していました。
そこに太平道と呼ばれる宗教の教祖・張角によって指導された黄巾賊が、後漢王朝打倒のために立ち上がりました。この黄巾の乱はあっという間に中国全土に広がり、首都・洛陽の目前まで押し寄せる事態となります。
後漢・霊帝の時代、184年の出来事でした。
この騒動に対して後漢政府は、これまでの政権争いで弾圧していた官僚たちを解放。各地で義勇軍を募集し、黄巾の乱の鎮圧を目指して躍起になりました。そうした義勇軍の中から後の三国の皇帝や基盤を作った英雄たち・曹操や劉備、孫権の父である孫堅が登場します。
この者たちの活躍により黄巾の乱の首謀者たちが倒れて乱は下火になりますが、洛陽の宮廷内では宦官と外戚の争いが再燃していました。霊帝の外戚・何進は、宦官を皆殺しにして権力を掌握しようとしますが、返り討ちに合い殺害されてしまいます。
この少し前に霊帝が亡くり、何進によって若い皇帝・劉弁が帝位につけられていました。
混乱の中で劉弁は弟・劉協と宮廷外に避難しますが、その途中で将軍・董卓の手中に落ちてしまいます。董卓は皇帝の保護者として洛陽に入り、皇帝の弟・劉協を皇帝につけました。この皇帝が後漢最後の皇帝・献帝です。
献帝を擁立した事によって、中央の権力を握った董卓は酒池肉林の横暴限りを尽くしました。この横暴を嫌った袁紹や曹操は、洛陽を脱出し反董卓の同盟軍を集めて戦いを挑みました。
虎牢関の戦いで敗れ形成が不利になった董卓は献帝と共に長安へ移りますが、長安へ移っても董卓は権力を独占。部下の呂布に暗殺される事になります。
董卓が暗殺されたことにより反董卓同盟も各群雄の思惑によって解散となり、以降それぞれの利害によって争いを始めました。
この時点で、天下を狙う群雄は袁紹・袁術・劉表・公孫瓚・陶謙・劉焉といった者たちで、ある時は手を結び、またある時は戦い、互いに争いあっていました。
その中で当時、天下に近かったのが袁紹です。華北で争っていた公孫瓚など倒していたことで、華北四州を支配する大国へと成長していました。この頃の後の三国の皇帝たちはそれぞれの支配地域を守るのに精いっぱいで、天下を狙える位置とは程遠い物でした。
しかし、この歴史が動き出します…
曹操と袁紹の天下分け目の戦い
董卓に取って代わった呂布と王允の政権は、あっけなく董卓残党に敗れて王允は殺されてしまいます。呂布は、袁術や袁紹を頼り拠点を転々をしていくことになります。
この時期、袁紹は劉表と袁術は公孫瓚と手を結び争いを繰り広げていました。袁術の配下だった孫堅は、劉表の配下・黄祖との戦いで戦死しています。
曹操は兗州の長官となると青州から侵攻してきた百万の黄巾賊を破り、その兵たちを青州兵として組織しました。勢いに乗った曹操は、かつてひと悶着あって父を殺した相手である徐州の陶謙を攻め込み現地で大虐殺を行っています。
この頃の劉備は少ない軍勢を率いて陶謙の下で戦い、陶謙が病死すると徐州を支配する事になりました。しかし、曹操の戦いに敗れ、身を寄せてきた呂布にも裏切られ徐州が奪われてしまいます。
一方で、一年かけて長安から洛陽へ到着した献帝は曹操の庇護を受け自身の本拠地である許に迎え入れられます。このチャンスに曹操は司空の地位に就き、後漢政府を自分のものにしたのです。
また、同時期に袁術が皇帝を自称するようになっていました。曹操からすれば皇帝を庇護している以上、皇帝を僭称する袁術に対しての大義名分を獲得。戦いに発展します。袁術の治めた地域は本人の放蕩な生活などで内部がボロボロだったこともあって曹操に敗れると失意の中で病死。
その後、呂布も曹操との争いに敗れ、処刑されてしまいます。
場所を移すと、華北では幽州を支配している公孫瓚、袁紹が勢力を拡大。曹操も力を持ち始め、これから活躍するであろう群雄たちが頭角を現しはじめ、199年頃になると黄巾の乱に登場した群雄たちで生き残ったのはほんの一握りとなってきました。
江東では江南の戦いで戦死した孫堅の息子・孫策も刺客の手にかかり暗殺され、弟の孫権が孫家を継いでいます。
そんな情勢の中、とうとう天下の覇権をかけて曹操と袁紹が黄河を挟んで激突する官渡の戦いが開始しました。
開戦当初は袁紹が優勢でしたが、曹操の奇襲によって兵糧を失った袁紹の軍勢が総崩れとなり敗走。この戦いで勝利した曹操がついに天下を制する直前までこぎつけたのでした。
赤壁の戦い
官渡の戦いで敗れた袁紹は間もなく病死し、そのタイミングで曹操は残りの袁紹の残存勢力の平定に乗り出しました。
曹操は冀州で袁尚を、青州で袁譚を破り袁紹の拠点を手に入れただけでなく、盗賊団の張燕も曹操を恐れ降伏。最後まで抵抗していた袁紹の甥・高覧も破り併州も平定させています。
また、袁紹の残存勢力だけでなく北方の烏丸賊の討伐も行い華北のすべてを平定し華北統一を成し遂げました。
一方で曹操が華北統一を成し遂げた頃の後の三国時代を率いた皇帝たちは、というと…
劉備は曹操の暗殺計画に加わっていたことを理由に袁紹の元へ身を寄せたものの官渡の戦い前に荊州の劉表の元へ転がり込んでおり、江南の孫権は家臣たちをまとめ上げて勢力の安定を図っていました。
なお、劉備は劉表の元へ転がり込んだ時期に荊州で生活していた諸葛亮を三顧の礼で迎え入れることに成功させています。
華北の平定を終えた曹操は後漢の制度改革に乗り出し、丞相の地位に就くと、天下統一を成し遂げるために荊州の劉表の元へ大軍を率いて南下しはじめます。劉備が転がり込んだ地域ですね。
そんな荊州の危機に劉表が病死し、後継者争いが勃発。跡を継いだ劉綜が荊州ごと早々に降伏し、曹操は労せず荊州を手に入れることになりました。
荊州が曹操の手に落ち、身の危険を感じ荊州を脱出した劉備は長坂で曹操に襲撃され敗れますが、何とか夏口へ逃れます。この地で、孫権の配下・魯粛に出会い、孫家と同盟を組み曹操と対抗するために諸葛亮を使者として江南へ派遣します。
曹操は孫権に対し降伏を促す書状を送り、家臣の大半が降伏に賛同する中、魯粛と周瑜だが強固に反対。そこに使者の諸葛亮も開戦論を説き、孫権も曹操との戦いを決意したのです。
孫権が降伏を突っぱねたことで、曹操軍が長江を大軍で渡り攻め入ります。
こうして孫権・劉備連合軍VS曹操軍による【赤壁の戦い】が開戦したのです。
大軍を率いて長江を渡ってきた曹操軍でしたが、諸葛亮・周瑜らの策略により曹操軍を撃退されると大損害を被ります。
赤壁の戦いの大敗で、曹操の天下統一の野望は一時とん挫し三国が分立する時代へ突入していくのでした。
三国鼎立と北伐
赤壁の戦いで敗れた後の曹操は曹仁と張遼を南方の守備を任せて自身は北方の本拠地へ戻り、内政や人材登用・文学活動を盛んに行いました。正直、後漢も皇帝の存在も表向き残ってはいますが、ほぼ曹操が国のトップ状態に。後漢は有名無実な存在になり果てています。
一方、孫権陣営では大きな動きがありました。陣営でも大きな影響力を持つ周瑜が蜀の攻撃を目指していた曹仁との戦いで負傷し、その後、病に倒れて36歳の若さで死去したのです。後任となる魯粛が任務を引き継ぎ、孫権を支えていくことになります。
魯粛は劉備との友好関係を維持。劉備が荊州にとどまることを許可したのですが、この判断が後に孫権と劉備間に亀裂を生む事態を招くのでした。
さて、最後の一人・劉備ですが、彼は荊州という足掛かりを手に入れ、曹操を恐れる劉璋に招かれて蜀の地へ入りました。この時に軍勢を使い、劉璋を降伏させ蜀の乗っ取りに成功させます。こうして、ようやく本格的な拠点を得ることに成功しました。諸葛亮が思い描いた三国鼎立の形が出来上がりました。
曹操陣営 vs. 劉備陣営
そんな中で曹操は関中で馬超と韓遂を破り、それを足掛かりに西方の平定を進めていました。また、漢中では五斗米道の教祖・張魯が独立を保っていましたが、曹操の攻撃を受け降伏。蜀に拠点を築いた劉備も、防衛のために軍勢を漢中に送って対抗します。
この頃、孫権は劉備に対し荊州を返還するようにと要求していました。関係悪化を良しと思わない劉備は荊州を二分する事で合意し、魏の攻撃を再開しました。
漢中に進出した劉備軍に曹操も軍を進めて対抗。この両者がぶつかった定軍山の戦いでは曹操の宿将・夏侯淵を失うことなり、結局、曹操は漢中から撤退しています。
孫権陣営 vs. 劉備陣営
荊州では関羽が曹仁を包囲して追い詰めていましたが、孫権が関羽を討つために呂蒙を派遣し樊城の戦いで関羽を捕らえ斬っています。
後漢の滅亡と魏・呉・蜀の成立
関羽が亡くなったのと同じ頃、曹操も死の床に就いていました。曹操は既に天下の大部分を握っていたのですが、後漢の臣下のまま皇帝の地位に就くことはなく死去します。
曹操死後には曹丕が跡を継ぎました。曹丕は献帝に禅譲を迫り、ついに魏の文帝として皇帝の座に就きました。
これに対抗すべく漢中王を称していた劉備も蜀の皇帝として即位します。諸葛亮を丞相にして蜀を任せ、自身は関羽の仇を討つために孫呉に進軍。ところが、夷陵の戦いで孫権配下の陸遜に敗れると白帝城は逃げ帰りました。
この荊州のいざこざで劉備と敵対し一戦交える前段階に対蜀をにらみ一時的に魏に臣従するような形をとって孫権は呉王となっていました。その絡みで曹丕は「(孫権の孫で皇太子の)孫登に爵位を与えるから魏に派遣せよ」というのですが、孫権はこれを拒否しています。
曹丕は孫権に対して実質的に「人質を送れよ」と言っていたわけです。
この拒否もあって曹丕は「蜀を追い込むため」という名目で呉に軍を送りますが、実際には呉を潰す計画なのが明らかであったため、孫権は蜀と再度同盟し魏に対抗しようとしました。
さすがに呉が潰れて蜀が魏と一対一に持ち込まれると国の存続が危ぶまれるため、劉備も呉側の和睦の提案を受け入れています。
その後、劉備は白帝城で病になり息を引き取りました。劉備の死後、蜀では劉禅が跡を継ぎ、諸葛亮が蜀の運営を任されます。
諸葛亮は劉備の意思に従い、内政を行い魏の討伐の為に軍隊を整備しました。その中で南方の孟獲を臣従させ国内を安定させると、文帝・曹丕から曹叡に変わったタイミングで、劉禅に出師表を出し、漢中に軍を動かします。
こうして、涼州へ侵攻し第一回北伐を開始したのです。
司馬一族の台頭と三国統一
万全の準備の下で北伐にあたった諸葛亮でしたが、街亭の戦いで馬謖が命令に違反して敗れ、全軍そのまま蜀へ退却しました。以降、数回にわたり北伐が行われることになります。
この頃になると、孫権も皇帝の位について呉の体制強化に努めますが、遼東の公孫淵と手を組もうとして裏切られてしまいます。
魏の国内では司馬懿が軍事を指揮し、諸葛亮の北伐に対応するようになっていました。
諸葛亮は呉との連携が取れたのを確認し、最後の北伐へ向かい五丈原で司馬懿とにらみ合いますが、呉との連携がうまくいかず諸葛亮も戦場で病に倒れ死去します。
遼東の公孫淵が燕王を称し、司馬懿はこれを撃退。この頃に倭国の卑弥呼が魏に使者を送り『親魏倭王』の称号をもらっています。明帝が死去すると、司馬懿は曹爽と共に皇帝の貢献人になりますが、曹爽によって司馬懿は中央から遠ざけられました。
呉でも孫権が亡くなり孫登が帝位につきますが早世し、孫和と孫覇の後継者争いが勃発。臨終の際、孫権は、両者に変えて孫亮を後継者に指名し死去します。
魏では中央から遠ざかっていた司馬懿がクーデターによって政権を握り、実権が司馬師・司馬昭によって奪われていました。その後、呉は幾度とも魏と長江の北で戦いますが、戦いを重ねるうちに国力が低下し、長江付近まで押し返されることになります。
蜀でも姜維が諸葛亮の後を継ぎ北伐を再開しますが、成果を上げることが出来ず次第に国力低下を招く結果となります。魏の鄧艾と鍾会が蜀の攻略に派遣されると、姜維の抵抗もむなしく劉禅は魏に降伏をし蜀漢は滅亡しました。
魏も晋に禅譲をし、司馬懿の孫・司馬炎がその帝位につきます。
晋は大軍を編成して六方面から呉に侵攻し、建業に晋軍が迫ると呉の皇帝・孫晧が降伏。三国は一つになり晋となりました。
こうして数々の英雄が争い散っていった三国時代は、幕を閉じ新しい政権晋によって100年ぶりに中国を統一したのです。