江戸城を築城した悲運の名将太田道灌
太田道灌は1432年に相模守護代・太田資房の子として生まれました。
太田家は代々関東管領を世襲していた上杉家の中の扇谷上杉家の執事を務めていました。上杉氏は、元々藤原氏からの支流のひとつで藤原重房が京都から鎌倉へ行き、上杉姓を賜った事から始まりました。
代々、鎌倉公方を補佐する役として関東管領を世襲していた上杉氏ですが、南北朝時代には、山内・犬懸・扇谷・宅間上杉家の四家に分かれており、山内・犬懸上杉家が管領職を独占していました。
1416年に犬懸上杉家の上杉氏憲が、鎌倉公方・足利持氏に対して反乱した【上杉禅秀の乱】を起こします。この乱で、甲斐の武田信満や小山田弥二郎も上杉氏憲に味方しましたが敗北して犬懸上杉家は滅亡しました。
これにより山内上杉家が宗家となり、管領職を独占しました。
宗家・山内上杉家の上杉憲実が関東管領となり、その補佐として扇谷上杉家の持朝が就任して相模守護に命じられます。この相模守護・上杉憲実の守護代として太田氏は仕えていました。
享徳の乱による関東の戦乱
1454年に鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺する事件が発生し、上杉管領家と鎌倉公方・足利氏と対立色を強めることになります。この、足利氏と上杉氏の対立は泥沼化し、1482年まで続くことになり、関東の戦乱【享徳の乱】と呼ばれています。
この戦乱で、扇谷上杉家は太田道灌の活躍で、七沢城や糟屋館を中心を支配する相模戦国大名へと成長し、宗家を圧倒することになります。
1456年に太田道灌が25歳の時に父から家督を譲られます。
この時、古河城に入り古河公方と称した足利成氏に対抗するために、道灌は河越城を築城し、主君・上杉定正が入り、房総の千葉氏の備えとして江戸城の築城を始めました。
1457年5月1日に、江戸城が完成し品川から移りました。
古河公方との対立が続く中で、山内上杉家の宰相継承を巡り、長尾景春が反乱を起こし、上杉顕定は敗れ上野まで撤退します。
この頃、太田道灌は、正室との間に嫡男・太田資康をもうけました。また、駿河の今川家の家督争いに介入し、扇谷上杉の血を引く今川範満を支援していました。そんな中、長尾景春の乱を知った道灌は、1477年に味方し小山田城や石神井城・練馬城を破り江戸城の脅威を取り除きます。
1478年1月には、古川公方・足利成氏が山内・上杉家に和議を申し入れて、享徳の乱が終結します。しかし、太田道灌の主君・上杉定正は、山内家主導で進められた古河公方との和睦に不満があった事から、扇谷上杉定正と山内上杉顕定は対立していきます。
太田道灌の暗殺
30年にも及ぶ、関東の戦乱をほぼ1人で平定する活躍を見せた太田道灌の名声は主君・上杉定正を凌ぐほどになっていました。定正自身もそれは面白くなかった事でしょう。
さらに、扇谷上杉家が宗家・山内家を凌ぐほど勢力を伸ばしたことにより、山内家の上杉顕定が道灌が主家を乗っ取ろうとしていると噂を流し、対立していた山内・扇谷家は道灌排除のため手を組みました。
怒涛の活躍で上杉家の危機を救った太田道灌ですが、主君・上杉定正の不穏な動きを警戒して、嫡男・資康を和議の人質名目で、1485年に敵対していた古河公方に預けました。
1486年、江戸城に居た太田道灌は、上杉定正に呼ばれ暗殺されてしまいます。
死に際に道灌は、「当方滅亡」と叫んだとされ、これは【自分が居なくなると扇谷上杉家の未来はない】と言う意味だと言われています。享年55歳でした。
山内上杉顕定は、道灌の父・太田道真の隠居地である越生・小杉の里をけん制するために、出陣しているため両上杉家による暗殺は計画的だったようです。
その後、家督は太田資康が継ぎ江戸城主となりましたが、1486年に上杉定正により落とされると、資康は甲斐へ逃れました。1505年に扇谷上杉朝良が江戸城主となり家臣へ復帰するまでの約20年間亡命生活を強いられていました。
後に、資康の次男・太田資高は、江戸城主・上杉朝興から城を奪い、北条氏綱に通じて江戸城は北条氏の支配下となります。
江戸城の築城
江戸城は平安末期に江戸氏がそこに居を構えた事から始まりとされています。
本格的な築城は、享徳の乱に際して1457年に道灌によって築城されました。
当時は、本丸・中城・外城の三重構造となっており、周囲を切岸や堀が巡り、門や橋で結ばれていました。本丸には、静勝軒と呼ばれる居宅が設けられて、背後には閣※が作られました。※閣とは、御殿や見晴のような高く構えた建物の事
江戸城の北側には梅林があり、そこには菅原道真が祀られていたそうです。