戦国時代の【正しい裏切りかた】裏切りの作法
下剋上がまかり通る戦国時代。
誰がいつ裏切るかは、各自アンテナを張っていなければいけません。織田信長のように、予想外の裏切りには「是非に及ばず」と言うしかないのです。
しかし、裏切りが必ずしも成功するかと言うとそうでもありません。
明智光秀のように元上司を討ち成功したと思っても、元同僚によって返り討ちに合うと言う事もしばしば。それでもこの時代の人は裏切りをやめません。いくら時代のトレンドとは言え、善い行いではないので【裏切り(謀反)】には、一定の作法があるようです。
今回は、そんな裏切りが当たり前に起こっていた戦国時代の裏切りのルールについて書いてみたいと思います。
裏切りのプロセス
時は戦国、自分の領国・一族のためなら裏切りもいとわない、だからこそ多くの戦国大名が誕生し、新旧交代が各地で起きて下剋上が流行ったのです。
先述したように、裏切りには一定の作法があります。
下剋上が流行りだとは言え裏切り行為は相当ひどい行為ですが、戦国時代ではそこに【覚悟】というものが出てきます。裏切った結果、将来が大きく変わってもその全てを引き受ける覚悟があるかどうかです。
例をあげると、今まで仕えていた家臣が主君に謀反を起こします。
これは【返り忠(かえりちゅう)】と呼ばれ、領国や自国の領民を守る理由があれば、その裏切りも周りには理解されやすいものです。ただし、主君を討つ名分がなければ、人心が離れ、自身も破滅への道が待っています。
後者の一番わかりやすいのが明智光秀で、それにあたると考えられています。
また、盾裏の反逆と呼ばれる裏切り方法もあり、戦で共に味方として戦う姿勢を見せながら、事前に敵方と内通しており、事が始まれば寝返ると言ったものです。
いったん盾を向けて敵と戦う姿を見せ、その後味方を裏切り盾を裏返すので【盾裏】と言う言葉が使われたそうです。敵からも味方からも白い目で見られるこの裏切り方法は、関ケ原の戦いの結末を決定づけた【小早川秀秋】が有名です。
裏切りはハイリスク・ハイリターン
裏切りが成功して、君主を討つことが出来ても、今度は裏切る側から裏切られる側に転じただけです。そのため自身の安泰のためにも、何とか裏切りを防止しなければいけません。
それが【人質】制度です。
その一つとして、政略結婚と称してお互いの身内を送り出す方法です。従属や同盟が成立し味方となる場合は、その人たちは両家のかすがい的な役割を果たしてくれます。しかし、その一方で嫁ぎ先の家を探るスパイ的な役割も期待されていました。
織田信長の妹・【お市】が浅井長政の裏切りを察知して兄に伝えたのは有名な話で、信長の娘・徳姫も姑と夫が武田家に通じてると伝えるのでした。
また、政略結婚の末に両家が敵側に転じた場合は完全な人質的な役割を担う事になります。しかし、両者が夫婦だった場合には情が湧いてしまうのか【離縁して国へ送り返す】事が多かったそうです。
次に、政略結婚ではなく君主や同盟先から直接【人質をよこせ】と言われる場合もあります。この場合の人質の扱いは、普段の生活では監禁されることなどはなく、非常に人道的な扱いを受けます。今川義元の下で人質となっていた竹千代(徳川家康)などは、むしろ太原雪斎に勉学を習い、貴重な武家教育を受けていたそうです。それが後の、江戸幕府の礎となったのだから人生は分かりません。
しかし、裏切りが発覚すると扱いは一変します。見せしめのため処刑され、【磔】か【斬首】になることが多かったようです。
人質を出すほうは、その人の【大切な人】で、親や子供・妻の場合もありました。そんな大切な人が自分の裏切りで磔や斬首されるのですから、家臣や同盟国に対して強烈な抑止力となったのです。
それでも「裏切る」ということは「大切な人を見捨ててでも良い何かがそこにはある」という事になります。
同じ裏切りでもルールを守らないと…
明智光秀も自身の裏切りで大きく歴史を変えた人物ですが、それ以上に日本の歴史を変えたのが、先述した小早川秀秋でした。1600年の関ケ原の戦いでは西軍に属し、その前哨戦では伏見城攻めまで参加しておきながら、本番では見事な盾裏の反逆をしてのけました。
実はこの反逆劇には、秀秋の叔母である北政所が関係しており、伏見城落城の折に北政所の元を訪れ、徳川家康に寝返る意向を強めたようです。その意向を最終的には、家康の元へ伝え、その暁には、上方2か国の領地を条件に内通が成立していました。
そんな秀秋の裏切りは誰もが知る処ですが、この関ヶ原には他にも裏切者が存在しました。
それが、脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座直保。それぞれが1000人ほどの兵を率いていたそうです。その内、脇坂安治だけが前もって家康に内通の旨を伝えていたようですが、この安治は賤ヶ岳七本槍の一人で、豊臣家での家臣としては古参の人物でした。
元々、脇坂安治の息子である安元は、徳川家康側に付くつもりでいましたが、石田三成に無理やり西軍を強要されていたそうです。そこで安元は、家康に事情を話し、合戦の最中に裏切りますと言う旨を伝えたそうです。
この一言が、戦い途中の裏切りでも父・脇坂安治の運命を変えたのです。関ケ原の戦い後は領土は安堵され、息子に頭が上がらない結果となりました。
しかし、他の3人は徳川方に何も連絡もなく戦況が悪くなると、秀秋に呼応して西軍から東軍へ寝返りました。こうした、戦況を分析して途中で寝返るパターンは一発アウトで、下剋上が流行っていた戦国時代でもとても嫌われていました。
裏切るにも信念(覚悟)がなく、二股膏薬と呼ばれこうした節操のない裏切りは、敵・味方からも受け入れらずに蔑まれました。
そのため、関ヶ原の戦い後の論功行賞では、朽木元網は2万石から9500石へと減封、小川祐忠、赤座直保ら2名は改易され、屋敷や所領などが没収される厳しい処分となった。
同じ裏切りでも、大きく明暗を分けた事例となります。
一方で、小早川秀秋は筑前33万石から増加し、上方2ヶ国という約束は反故にされつつ、備前・備中・美作と中国地方の51万石の大名となりますが、関ヶ原の戦いの2年後に21歳の若さでこの世を去りました。
戦国時代の裏切りで重要なのは、寝返る先の了承を取ったか否かで、相手の戦略上の内通成立での裏切りは称賛され、誰に命令されていない節操のない裏切りは、処罰の対象となっていたようです。