織田信長の目指す天下布武は、天下統一と言う意味ではなかった!?
文献や教科書などでよく見かける天下布武の主印判。
天下布武と聞くと、武力を持って天下を制するイメージがしますが、本当のところはどうなんでしょうか?
今回は、織田信長のスローガンでもあった天下布武について考えていきます。
天下布武の始まり
天下布武のスローガンは、1567年に稲葉山城を落としたあと、城名を岐阜と改めえ本拠地としたときに使いはじめます。現在発見されている文献では、家臣坂井利貞に1567年11月にあてた朱印状が初めての天下布武の使用とされています。
天下布武の朱印
上記の天下布武の印文は正秀寺の沢彦宗恩が考えたとされています。
この正秀寺と言うのは、信長の守役である平手正秀が自害した後、その菩提を弔うために建てた寺の事で、その住職として沢彦が招かれました。
信長との出会いは、守役である平手正秀の依頼を受けて、教育係として清須城に来ました。信長が元服後には、参謀役として信長の側に仕えていました。織田信秀の葬儀に抹香を投げつけた有名な逸話は、沢彦宗恩が提案したパフォーマンスだったいう話もあります。
当時の稲葉山城と城下町の井ノ口の両方を岐阜と提案したのも沢彦で、それを信長が受け入れている所をみると、この沢彦をとても信頼していたと思われます。
天下布武の誕生秘話
信長は、どのような経緯で天下布武と言うスローガンを決めていったのでしょうか?
結論から言うと、現在ある文献には決定的な証拠はありません。しかし、一つの文献が何らかのヒントとなると言われています。
【経元卿御教書案】と言う書物にある、正親町天皇の論旨案です。
その内容は、
『今度国々属本意由、尤武勇之長上、天道之感応古今無双之名将…』
漢文なので何がなんだかわかりませんが、最後の古今無双之名将は、あなたは天下無双の名将だよ的な事が書かれているようです。簡単に言えば、信長が美濃を平定した事に対しての天皇の賞賛と更なる勢力拡大の期待が書かれているそうです。
この論旨案は、1567年11月9日に受け取ったとされています。
ここで一つの仮説を立ててみましょう。
先ほど前述した坂井利貞らがもらった朱印状が11月9日以降に貰ったものだとすれば、古今無双之名将と褒めたたえられた事と天下布武の誕生は何らかの関係があるかもしれません。
要するに信長は天皇から褒められて、『俺って、凄いから天下とっちゃおうかな~?』となって天下布武と言うキャッチフレーズが生まれたのかもしれません。
戦国時代では、すでに朱印状の発行はポピュラーなものでした。有名どころでは、北条の虎印判状で朱印は【禄寿応隠】です。
北条家の朱印
この朱印の言葉は、自分の好きな言葉やスローガンを印文としています。信長の天下布武は、自身の目標を印にした事になります。もし私なら、【家内安全】か【無病息災】とかしようかと思います。
天下布武の意味とは?
冒頭に書きましたが、【天下布武】は『武力によって…』と思っていましたが、実際は少し違うようです。
この4文字熟語を読みやすくすると『天下に武を布く』となります。
天下は全国の事を指します。布くとは、治める・統治すると言う意味があります。この二つを合わせると、全国を治めるとなります。そして残りは、武という事になりますが、これをどのように解釈するかで、意味が随分と変わります。
歴史を見ていると、信長の考える『武』は武力と思いがちですが、ここでの『武』は武士の武と考えます。
つまり、武家による全国の統治という事になります。
わが国での中世期頃は、三つの権力が互いにバランスを持って国を統治すると言う考え方がありました。
その3つの権力とは…
公家 武家 寺家 です。
鎌倉幕府以降、武家が政治を取り仕切るようになり、武士の世の中と思われがちですが、実際には公家や寺家に力がなかったわけではありません。実際に歴史を見ていても、公家・武家・寺家が互いに権力争いをしている時代が幾つも見られます。
おそらく信長は、公家や寺家の勢力をすべて排除して純粋な武家の世の中を目指したのではないかと考えます。そう考えると、当時力を持っていた比叡山での焼き討ちなどの理由が何となく理解できます。
天下布武とは武家による全国の統治と書きましたが、最近の研究で天下=全国と言う意味ではない可能性があるそうです。これについては、長くなりそうなので別の機会に紹介したいと思います。