ヨーロッパ

スペイン内戦はなぜ起きたのか?第二共和政からフランコ独裁までの流れ

歴ブロ

1936年7月、スペインでは軍人たちによる反乱が起こり、共和国政府との間で内戦が始まりました。

このスペイン内戦では、反乱軍側をナチス・ドイツやファシスト・イタリアが支援し、共和国政府側にはソ連や各国の義勇兵が加わるなど、外国も深く関わることになります。

しかし、そもそもなぜスペインでは、政府に対する軍事反乱が起こったのでしょうか。

その背景には、1931年に成立した第二共和政による改革と、それをめぐる政治的・社会的な対立がありました。

今回は、第二共和政の成立からスペイン内戦の勃発、そしてフランコによる独裁体制が確立するまでの流れを解説します。

スポンサーリンク

王政崩壊と第二共和政の成立(1931年)

1874年、スペインではブルボン朝の王政が復活し、保守党と自由党が交代で政権を担当する政治体制が整えられました。

しかし、1898年の米西戦争での敗北や社会運動の拡大、政治的な混乱などによって、王政復古体制は次第に不安定になっていきます。

1923年にはプリモ=デ=リベーラ将軍がクーデターを起こし、国王アルフォンソ13世の支持を受けて軍事独裁を開始しました。

※アルフォンソ13世(左)とプリモ・デ・リベラ(右)

その後、1930年に独裁政権が崩壊すると、国王への批判も強まります。

そして1931年4月、地方選挙で共和派が主要都市を中心に勝利すると、アルフォンソ13世は国外へ退去。第二共和政が成立し、スペインは王政から共和政へと移行しました。

第二共和政の改革(1931~1933年)

1931年4月に第二共和政が成立すると、同年12月には新憲法が制定され、女性参政権や信教の自由が認められ、カトリック教会と国家の分離も定められました。

新たな共和国政府は、これまでのスペイン社会が抱えていた問題を解決するため、さまざまな改革に取り組みました。

  • 土地改革
    当時のスペイン南部では、一部の大地主が広大な土地を所有する一方、土地を持たない農業労働者が多くいたため、1932年に土地改革法を制定。土地所有のあり方を改めようとした。
  • 軍制改革
    将校の数や軍の組織の見直し。
  • カタルーニャ地方の自治拡大  など

しかし、土地改革は実施に時間がかかり、農民の期待に十分応えられませんでした。一方、教会や軍部、地主層などには、従来の権益や社会制度が変わることに反発する人々もいました。

こうして第二共和政は、改革を進めるなかで、さまざまな政治的・社会的対立に直面することになります。

政治的対立の激化と人民戦線の勝利(1933~1936年)

1933年の総選挙では、それまで改革を進めてきた左派勢力が後退し、中道・右派勢力が優勢となりました。

新たな政府は、それまで進められていた土地改革などの見直しに着手します。しかし、こうした政策転換に左派勢力が反発し、政府との対立が深まっていきました。

1934年10月には、右派勢力の政権参加に反発して各地でストライキや反乱が発生。特に北部のアストゥリアス地方では、炭鉱労働者を中心とする大規模な武装蜂起に発展しました。

政府は軍隊を投入してこれを鎮圧し、多数の死傷者や逮捕者が出ることになります。

こうした出来事によって政治的な対立はさらに激しくなり、左派勢力は次の選挙に向けて結束を強めました。

そして1936年2月、共和派左派や社会主義者、共産主義者などが協力して結成した人民戦線が総選挙で勝利します。

スペインの人民戦線の特徴

人民戦線は、1930年代に広がった反ファシズムを掲げる政治連合です。

スペインでは、ファシズムへの対抗に加え、右派勢力によって停滞した改革の再開や、1934年の蜂起に関係した人々への恩赦も重要な目的となっていました。

しかし、土地をめぐる争いやストライキ、政治的な暴力は続き、政府と反対勢力の対立は深刻化していきます。

軍事反乱からスペイン内戦へ(1936年)

こうしたなか、共和国政府に反対する軍人たちは、武力によって政権を倒す計画を進めていました。その計画には、のちに独裁者となるフランコ将軍も加わっています。

そして7月17日、スペイン領モロッコで軍事反乱が始まり、翌日にはスペイン本土にも広がりました。

反乱には軍人だけでなく、王党派や保守派、ファシズムを掲げるファランヘ党なども協力しました。

しかし、軍全体が反乱に参加したわけではなく、マドリードやバルセロナなどでは、共和国政府を支持する軍人や労働者らが反乱を阻止しています。一方で、モロッコやスペイン北西部などは反乱軍が掌握しました。

こうしてスペイン国内は、共和国政府側と反乱軍側がそれぞれ支配する地域に分かれ、軍事反乱は長期にわたるスペイン内戦へと発展していきます。

スペイン内戦と外国の介入(1936~1939年)

スペイン内戦が始まると、ヨーロッパ諸国もこの戦争に関わるようになりました。

反乱軍側を支援したのは、ヒトラー率いるナチス・ドイツとムッソリーニ率いるファシスト・イタリアです。両国は航空機や武器を供給し、兵士や軍事部隊も派遣しました。

一方、共和国政府側にはソ連が武器や軍事顧問を送り、各国から反ファシズムを掲げる義勇兵が集まって国際旅団を組織しました。

こうした外国の介入によって、スペイン内戦はヨーロッパの政治的・思想的対立とも深く結びついていきます。

その一方で、イギリスとフランスは、戦争がヨーロッパ全体に拡大することを警戒し、不干渉政策をとりました。しかし、ドイツやイタリア、ソ連による支援は続き、不干渉の取り決めは十分に機能しませんでした。

1937年4月には、ドイツ軍を中心とする航空部隊がスペイン北部の都市ゲルニカを爆撃し、多くの民間人が犠牲となりました。

この惨事は、画家ピカソの作品『ゲルニカ』によっても広く知られるようになります。

内戦の終結とフランコ独裁(1939年~)

内戦が長期化するなか、反乱軍は次第に共和国政府側を追い詰めていきました。

1939年1月にはバルセロナを占領し、3月には首都マドリードも陥落。4月1日、フランコは内戦の終結を宣言しました。

勝利したフランコは、内戦中から築いていた独裁体制をスペイン全土に広げ、反対する政治勢力への弾圧を進めます。多くの共和国支持者が投獄され、国外へ亡命する人々も相次ぎました。

同年9月に第二次世界大戦が始まると、スペインは参戦を避けましたが、ドイツやイタリアとの関係を維持し、独ソ戦には義勇兵からなる青師団を派遣しました。

第二次世界大戦後もフランコの独裁政権は存続し、冷戦が進むなかで西側諸国との関係も改善していきます。

そして1975年、フランコが死去すると、スペインは国王フアン・カルロス1世のもとで民主化へと進むことになりました。

スポンサーリンク
ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
スポンサーリンク
記事URLをコピーしました