古代ローマの西アジアへの影響とササン朝の躍進
アレクサンドロス大王の大躍進後、その死により瓦解すると、継承国家が複数乱立することになりました。
その後、地中海のヨーロッパ側に存在したローマがセレウコス朝、プトレマイオス朝、パルティア、ペルガモン…と時期の違いはあるにせよ滅亡させたり弱体化させたりしたのは以前お話しした通りです。
今回は、ローマが与えた影響と東西交易の中心となっていたパルティアを滅ぼす原因ともなったササン朝について探っていきます。
古代ローマによる影響とは??
中東情勢がヨーロッパと深く関わっているのは今も昔も変わりませんね。
そんな古代のヨーロッパを見る時に絶対忘れてはならないのが古代ローマです。古代ローマはその体制によって時代が分けられています。
- 王政時代:紀元前753年~紀元前509年
- 共和政期:紀元前509年~紀元前27年
- 帝政期:紀元前27年~476年
アレクサンドロス以降の古代ローマについて簡単に見てみよう
アレクサンドロス大王(紀元前356-紀元前323年)の活躍時期と重なるのは共和政期です。アレクサンドロス大王が大躍進している間のローマは、ローマという都市周辺を治める程度の大きさの国でした。
ローマが発展している真っただ中にアレクサンドロス大王の死去と大帝国の瓦解。そして複数の後継者たちによる国家の建国と後継国家争いが起こっていきます。近くに大国がある状況でも互いに闘っていれば小国は生きながらえることも出来れば、領土を広げることも可能です。
都市周辺の領土しか持っていなかったローマは後者でした。
現在のイタリア領土に近い領土にまで広げたのはアレクサンドロス大王の死から60年近く経ってからになります。ローマは領土を広げ、地中海の覇権争いにも勝利。確実に大国への道を進んでいったのです。
紀元前150年より前の時期辺りになると、共和政ローマが国力を増してギリシアの都市国家を勢力下に置き始め、ヨーロッパ以外にもの諸国にも影響を与え始めました。
詳説世界史B 山川出版社 p.45
そんなローマが与えた諸国への影響を見ていくことにしましょう。なお、ローマが周辺諸国に大きな変化を与えたのは共和政から帝政へと変化する直前の出来事です。
セレウコス朝とプトレマイオス朝の滅亡
ローマが中東で影響力を行使できる程大きくなった時期のセレウコス朝は中東の一部のみを支配する程度の数ある国々の一つに留まっていますが、一時代を築いたセレウコス朝に最期のとどめを刺したのが共和政ローマです。
支配領域からの複数国(バクトリア王国・パルティア・ペルガモン)の独立と内紛も重なって弱体化している中で、セレウコス朝を紀元前64年にローマのグナエウス=ポンペイウスが滅ぼしています。
プトレマイオス朝もローマから影響を与えられた国の一つ。ローマの影響力が増大するにつれてプトレマイオス朝はローマの従属的国家となり、最終的には内戦に巻き込まれて滅亡しています。
この滅亡前のいざこざの際にクレオパトラが自身の婚姻を利用して国を存続させようとしたのは、もしかすると聞いたことがあるかもしれません。
パルティアとの抗争
パルティア(wikipedia)より
パルティアは東西交易の要衝の地。シルクロード上に位置しており、西にローマ・東に漢という大国に挟まれていることから富が集まりやすく、周囲から目を付けられやすい立地条件にありました。
そんな中、共和政ローマがシリア・イラク方面まで進出。アナトリア半島の東方で黒海とカスピ海の間にあるアルメニアとティグリス・ユーフラテス川流域を巡ってローマとパルティアで抗争が始まり、実際に紀元前53年のカルラエの戦いをはじめ多くの戦いを行っていきます。
パルティアはローマとの戦争で勝ったり負けたりしつつ、国内の王位争いも絡んで弱体化していきました。
ササン朝を見てみよう
ササン朝は農業に基礎を置くイラン人のアルダシール1世により226年に建国されました。
基本的に、ササン朝はパルティアの領土を踏襲しています。多少ササン朝の方が東の領土を多く持っているかな?程度の違いです。
パルティアとほとんど場所が変わらない訳ですから、パルティアで浮かび上がった国を治める上での問題がササン朝でも起こる可能性が高くなります。
交易の要衝の地・パルティアの問題点といえば
- 富が集まるため、周辺国・周辺民族から狙われやすい
- 多人種が集まりやすく国としての意識が薄い
目立つのはこの2点です。
ササン朝とパルティアの大きな違いとは?
先ほど挙げたパルティアの問題点のうち『周囲から狙われやすい』は敵国を追い返せばいいだけの話なのですが、何しろまとまりに欠ければ欠けるほど周りを跳ね除ける力は少なくなります。改善すべき点は『国としてまとまる』この一点に尽きるでしょう。
そこで『国としてまとまる』為にササン朝が行ったのが
ゾロアスター教
を国教に定めること。ゾロアスター教といえば、紀元前6世紀半ばごろにイラン系のアケメネス朝ペルシアの王族が信仰していた宗教です(キュロス2世やダレイオス1世がアケメネス朝の代表格です)。イラン人によって長らく信仰され続け800年近く後に世界史の表舞台に再度出てきたわけですね。
そんな風に国教を定めた甲斐があってかササン朝は第2代皇帝・シャプール1世の時にシリアに侵入したローマ軍を破り、時のローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としています。
ローマ皇帝で皇帝が敵国に捕らえられたのは前代未聞の大事件であり、国力低下を象徴する事件として考えられていますが、ここらへんはローマに焦点を当てた記事に書いていくので割愛します。なお、このローマ皇帝の連行先がビシャプール遺跡と言われています。
ローマの国力低下が疑われるようになってから100年以上経過した395年に西ローマ帝国とビサンツ帝国(東ローマ帝国)に分かれます。
ローマ分裂後にササン朝と戦ったのはビサンツ帝国(東ローマ帝国)でしたが、このビサンツ帝国との戦いもササン朝は優勢に進め和平を結ぶに至りました。
さらに時が経過し、5世紀後半に入ってササン朝の東北部辺りでちょっかいだしてきたのが中央アジアの遊牧民エフタル。このエフタルの侵入をトルコ系遊牧民の突厥と同盟を結び、撃退し滅ぼします。
ササン朝とビサンツ帝国の争いが与えた影響とは??
ササン朝とビサンツ帝国は一旦和平を結んだもののやはり利害が対立するため戦いが絶えず...
両国の戦いで荒廃したのが元々交易で栄えていたシリアやアナトリア半島周辺です。貿易の中継地点が戦い続きで治安が悪くなり、商品や金銭のやり取りが難しくなりました。
そこで貿易航路を大きく変えると、今度はアラビア半島が栄えるようになっていきます。
こうした背景による経済的なメリットは大きかったのですが、同時に貧富の差も拡大するように。大金を手にしたことで社会が分断されてしまったのです。
そんな背景の中で出てきたのがムハンマド。イスラーム教の創始者です。
詳しいことは別記事で紹介しますが、両国の諍いは最後の世界宗教の一つイスラム教が誕生するという歴史上でも非常に大きな変化をもたらすことになったのでした。
ササン朝とイスラム教
ササン朝はビサンツ帝国との戦いを優位に進めていたとは言え、長く続く戦争と交易の激減に加えて交易の中心地が変わったことで富が集まりにくくなり徐々に衰退、反乱が相次ぐようになったのが7世紀の初めです。
こうなると国内がボロボロになるのは世の常で、王位継承の内戦が発生に洪水の発生と農業適地の消失…
どうにもならない中でイスラム教で繋がっている共同体が勢力を拡大してきます。
イスラーム教の教えは信仰生活だけでなく、政治的・社会的・文化的活動すべてが教義に含まれています。宗教を信じていても荒廃してる現実と富の独占を禁じるような教義を聞いて宗教の信仰を鞍替えしたいという人は多くいたことでしょう。
元々バラバラだった人々を宗教によってまとめ上げていたササン朝にとって非常に大きな痛手となりました。
こうしてササン朝は7世紀半ばにイスラーム勢力のアラブ人によって征服され、滅びることとなったのです。