絵で見る・律令制への道【蘇我氏の台頭】
大化の改新のきっかけとしてお馴染みの蘇我氏。律令制という歴史的に見ても重要な制度が作られた背景を語る時、乙巳の変、大化の改新、白村江の戦いは避けて通れません。
そんな一連の政治改革に至った背景は近隣諸国の事情も重なって結構複雑だったりしますので、今回はイラスト付きで改めて紹介していきます。
相変わらず流れ優先で補完している箇所があるのでご注意下さい。
古墳時代のまとめ
そもそも大化の改新は飛鳥時代と呼ばれる時代に起きた出来事。
ですが、この時期は微妙に古墳時代(3世紀~7世紀)ともかぶっています。当時の豪族の力関係を少しだけ見ていくと
【初期・3~4世紀】 複数の豪族による連合政治
【中期・4~5世紀】 大王と葛城氏の両頭政治
【後期・6~7世紀】 大王に権力が集中(豪族たちは補佐役)
と時代により変化しているのが分かっています。大王に権力が集中し始めるキッカケを作ったのが 葛城氏 の失脚を図った 雄略天皇。
その雄略天皇が重用したのが 物部氏 と大伴氏 でした。
物部氏と大伴氏は軍事に関わった氏だと言われています。
雄略天皇は武に優れていたとして伝わっていますが、物部氏・大伴氏 の両氏を重視したことで評価が出来上がったとも考えられますね。
そんな物部氏と大伴氏ですが近隣の国際情勢に大きく影響されていきます。
4~5世紀頃の中国は 十六国時代(304ー439年)~南北朝(439ー589年)への移行期で混乱の最中でした。その隙を狙って 高句麗が南下政策 を開始します。
出典:世界の歴史まっぷ | 世界史用語を国・時代名・年代・カテゴリから検索
当時の日本(倭国)は、鉄資源を朝鮮半島に頼る状況で朝鮮半島南部の国とは交流が盛んでした。中でも伽耶と呼ばれる国の集合体のような国との関わりが深かったと言われます。
高句麗に対抗するため、百済・伽耶南部は日本との同盟を結びますが、徐々に伽耶の勢力はそがれていきます。危機感を覚えた3か国は高句麗に攻め込むことに。
そのうち、この戦を嫌った人材が流入したことに加え、外交を駆使して基盤を広げていったことで新羅が朝鮮半島での影響力を高めていきました。
日本は資源問題を抱えたまま静観することとなります。
朝鮮半島問題の表面化と大伴氏の失脚
朝鮮半島の問題が表面化したのは6世紀初頭の継体朝。伽耶の南部が新羅に取り込まれそうなります。この時の継体天皇が出した答えは『新羅を攻撃しよう』というものでした。
この第26代・継体天皇。出自には色々噂がありました。物部氏と大伴氏が地方から引っ張り出した人物だったためです。
そのうえ傍目には百済に肩入れしようとしているので反対する豪族が出てくるのも当然と言えましょう。
そこに目を付けたのが新羅。朝鮮半島出征の拠点である九州の豪族『磐井』に賄賂を贈り反乱を画策させます。
いわゆる 磐井の乱 と呼ばれる反乱です。
反乱を治めた頃、すでに新羅は対策を講じており出征は失敗に終わります。
この出来事を機に 物部氏 は優遇され、朝鮮半島の責任者だった 大伴氏 は冷遇され始めます。
とは言え、大伴氏は朝鮮半島を良く知る氏。失脚すると不具合が出てきます。そこで朝鮮半島との繋がりの深い蘇我氏が着目されたのです。
仏教の伝来
蘇我氏が力を着実につけている中、百済から日本へ仏教が伝わります。
日本側は
- 人心掌握の手段
- 当時の権力者の影響力を削ぐための手段
として考えたのかもしれません。
百済側は百済側で、
日本に対して自国と共通の価値観を持たせることで自国側に取り込む手段
として仏教を伝えたと思われます。もちろん当時の宗教観は現代と全く違うので単に良いものを伝えようとしていたのかもしれませんが。
恐らく様々な意図があって仏教を受け入れたい蘇我氏が少しずつ仏教を取り入れていった頃
疫病(天然痘)大流行
国際交流が盛んになったことで病原体が国内に入り込み、今までにない病が流行り始めたのです。この病は致死率が20%~50%と非常に高いうえに感染力が強く人々に恐れられていました。
そのため、仏教を排除しようとする物部氏を中心とする排仏派と崇仏派の間でドロドロの言い争いが始まります。
それぞれが天皇候補を擁立し587年に権力闘争が勃発。結果は崇仏派の勝利に終わり、蘇我馬子の代で蘇我氏が力を得るようになります。物部氏を倒した中には蘇我氏の娘を嫁にしていた厩戸皇子(蘇我馬子=厩戸皇子説もあり)の姿もありました。
大国の誕生と日本の対策
さて、遡ること6年前。581年の大陸に目を向けてみると
隋
という大国が誕生しています。
この隋の隣には武に秀でた突蕨(とつけつ)という遊牧民の国があります。高句麗と突蕨が結ぶことを恐れて高句麗に攻め込んだ隋は、徐々に力を失っていきます。
この間、新羅をはじめ外関係を優位に進めるため日本は着々と準備を始めます。
不穏因子の排除(即位後も政治の実権を握る蘇我馬子に不満を持った崇峻天皇を暗殺)と 遣隋使の派遣 です。
ところが第1回目の遣隋使派遣(600年)は
こんな感じで失敗に終わり、帰りは研究のため多くの書物を手に入れたようです。
それ以降は舐められないように
冠位十二階 と 十七条の憲法 を制定して体裁を整えていく中で、推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の協力体制が出来上がっていきました。
ちなみに第二回の遣随使では有能な人物を多く送り込み、尚且つ随と周辺諸国との関係を見極めてから派遣したため当初の目的を達成させました。随の皇帝をかなり怒らせたようではありますが・・・
蘇我氏の政策は外交だけに留まらず日本国内にも及びます。皇室と婚姻関係を結び、勢力を確実なものとし、蘇我馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏全盛期を築き上げたのです。