戦国時代に強すぎて鬼の異名が付いた武将10選!!
戦国時代には「越後の龍」や「甲斐の虎」、「槍の又左」など、多くの異名を持つ武将たちがいました。中でも「鬼」の異名を持つ武将たちは、武勇に優れ敵から恐れられる存在でした。今回は、そんな「鬼」の異名を持つ戦国武将たちを10人を紹介します。
この記事はYahoo!ニュースエキスパートに投降した記事をブログ用に加筆・修正して投稿しています。ブログ用に一部人物も変えてみました。
柴田勝家『鬼柴田』
織田信長の主要な戦いにほとんど参加し、数々の武功を挙げて織田家の筆頭家老にまで昇り詰めます。六角承禎に長光寺城が包囲された時、残った水瓶を割り『力が残っているうちに敵を打ち破ろう』と兵たちを鼓舞して、わずか400の兵で10倍の六角軍を大敗させました。この戦い以降「鬼柴田」や「瓶割り柴田」と呼ばれるようになりました。
片倉重長『鬼小十郎』
伊達政宗の名参謀・片倉小十郎景綱の嫡男で、二代目小十郎として活躍しました。
大坂の陣では参戦できない父の代わりに出陣して、後藤又兵衛や薄田兼相を討ち取ります。大坂の陣で戦果を挙げたが、父からは辛辣な言葉をかけられまますが、家康からは『鬼小十郎』とその武勇をたたえました。
佐竹義重『鬼義重』
北の伊達氏をけん制しつつ、北条氏に対しても戦い続けました。北条氏との戦いでは、7人の敵を一瞬で斬り伏せるなどの勇猛さから「鬼義重」や「坂東太郎」と呼ばれます。関東で強敵に囲まれながらも、婚姻外交を巧みに結んで勢力基盤を安定させる一方、天下人になる前の豊臣秀吉と接触する先見の明も持ち合わせていました。
本多重次『鬼作左』
気性が荒く豪快な人物で武勇に優れており、徳川家康から「鬼作左」と呼ばれました。天野康景や高力清長と共に三河三奉行と称されます。三人の性格を「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」とからかわれていましたが、領民からは非常に愛された人物でした。
井伊直政『井伊の赤鬼』
家康が旧武田領を引き継いだ時に、井伊直政は山県昌景が率いた武田軍最強の「赤備え」を継承します。小牧・長久手の戦いで豊臣軍の意表を突く形で撃破し、その勇猛果敢な戦いから「井伊の赤鬼」として全国に知れ渡るようになりました。
佐久間盛政『鬼玄蕃』
信長の命により佐久間信盛が高野山に追放され、盛政も自ら蟄居して謹慎していたところ、すぐに解かれて織田家に復帰。北陸司令官・柴田勝家の下で、上杉軍や一向一揆を破るなどの活躍を見せました。
この活躍から『鬼玄蕃』と呼ばれるようになりました。
森長可『鬼武蔵』
非常に気性の荒い人物で、信長の小姓を務めた森蘭丸の兄でもあります。信長の命令を無視して関所を通過しようとした際、止めた関守を斬り殺す逸話が残っています。この事件を知った信長は『武蔵坊弁慶のようだな』と笑って許し、以降「鬼武蔵」を名乗ることを命じました。
島津義弘『鬼島津』
九州地方の木崎原の戦いでは、3000の兵をわずか300で迎え撃ち勝利。朝鮮出兵の際には、20万の兵を約7000で打ち破り、朝鮮兵から「鬼石曼子※(グイシーマンズ)」と呼ばれ恐れられました。これにより「鬼島津」として広まりました。
※朝鮮半島では鬼の意味と同じだそうです。
十河一存『鬼十河』
信長よりも先に畿内を掌握し三好政権を作った三好長慶の弟。讃岐の寒川氏との戦いで負傷し退却するも傷口に塩を塗り込み、腕にツルを巻いて再び戦場へ戻り勝利を収めました。この戦い以降、「鬼十河」や「夜叉十河」と呼ばれるようになります。
赤井直正『丹波の赤鬼』
信長の命で明智光秀が丹波攻略際に立ちはだかった猛将。
勝利を確信した光秀でしたが「赤井の呼び込み軍法」で、光秀を退却させています。この明智軍の猛攻をしのぎ丹波を守った事から『丹波の赤鬼』と呼ばれるようになりました。
またこの戦いで光秀は死を覚悟したといわれています。
何人か入れ替えましたが、10人の「鬼」の異名をもつ武将を紹介しました。
どの人物も個人の武が優れているだけではなく、指揮官としての能力や軍略に長け、情に深に深かったりとまさに誰もがあこがれる存在だったのかもしれません。異名のほとんどが後世に付けられたとされていますが、同じ鬼でもそれぞれの個性があっておもしろいと思います。