江戸無血開城とは?戊辰戦争の裏で恭順派がどう動いたのか簡単に解説!
以前書いた戊辰戦争の記事では、旧幕臣たちの間で「新政府軍と徹底的に戦おう」とする主戦論と「国内の内戦は外国に付け入る隙を与えるだけだから、恭順しよう」とする恭順論に分かれていた…という内容をお伝えしていました。
今回は、戊辰戦争を行なった者たちと袂を分かった恭順派の徳川慶喜らの動きについて探っていこうと思います。
そもそも戊辰戦争って?
簡単に説明すると、幕末ペリーがやってきて開国するか否かで意見が真っ二つの中で幕府の重臣が勝手に開国を決めたことで幕府への反発が生まれ、その活動が活発化すると幕府は追い込まれたのが始まりです。
異国との関係にも気を配らなければならない大ピンチの中、将軍となった徳川慶喜は政権を返上した方が物事が上手く回りそうな事態になっていました。
大政奉還で徳川慶喜が政権を返上
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朝廷が政治運営で慶喜を頼る
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(政敵の討幕派は面白くない)
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クーデターを起こし新政権になったことを宣言する
王政復古の大号令を出す
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ついでに朝廷内での官職を辞めさせ、領地も処分
慶喜を追い出す
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慶喜を必要と考える派閥もあり、そこまでしなくても…と処分が甘くなる
(討幕派は…以下略)
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討幕派による旧幕臣への挑発活動が原因で江戸薩摩藩邸焼討事件が起こる
こうした事件の結果、慶喜は我慢の限界を超えた新政府軍を討とうとする旧幕臣たちを抑え切れず1868年から勃発したのが戊辰戦争です。
戊辰戦争(wikipedia)より
鳥羽・伏見の戦いから始まったこの戦いでは、初戦から旧幕府軍は錦の御旗を持った新政府軍により劣勢に立たされました。
そんな中、慶喜陣営が戊辰戦争を戦っていく主戦派と分かれ独自の行動をとっていくことになります。
江戸城への帰還
鳥羽・伏見の戦いで旧幕軍が劣勢に立たされている真っ最中に慶喜はまさかの行動を取ることに。軍を捨てて大阪城を脱出し江戸へ逃走したのです。旧幕軍は完全に士気を喪失。初戦は完敗に終りました。
それでも倒幕派は慶喜を許さず、朝廷からの徳川慶喜追討令発令を盾に戦おうとしましたが、慶喜は真っ向からの対立を避けて主戦派とは別の路線を貫きます。新政府に恭順しようとしたのです。
その考えの元で江戸に帰還して真っ先に行ったのが謹慎中の勝海舟の呼び出しと陸軍総裁への任命でした。
勝海舟が行ったこととは?
最初に行ったのが親仏派の幕臣・小栗上野介らの罷免と薩長との戦いを薦めてくるフランスとの関係を断つこと。
戦争以前の段階で、幕府とフランス、薩摩とイギリスには接点がありました。が、戊辰戦争が始まったことでヨーロッパ情勢における英仏間の微妙な関係が薩摩とイギリスとの距離を縮めかねないと考えたためです。
次に行ったのが慶喜の上野寛永寺で篭り、恭順姿勢をアピールすること。慶喜は勝の言に従って寛永寺に篭っています。
山岡鉄舟の交渉
慶喜が籠ってから約1か月後。慶喜が征東大総督府に恭順を訴えるための使者として推薦した旗本の山岡鉄舟と勝が会談し、慶喜の恭順を東征大総督にどう伝えれば良いのかを相談をしていました。そんな中で旧幕府勢力が江戸攪乱の為に辻斬り・放火と好き勝手を行っていた薩摩藩士の益満休之助(ますみつきゅうのすけ)を捕らえます。
山岡鉄舟は、かつて薩摩方の西郷隆盛と会談したことのある勝の手紙と共に、益満休之助に案内をさせ官軍として駿府に駐留していた西郷と会見。勝と西郷との会談をもぎ取ったのでした。
※最初に勝と西郷が会談したのは長州征伐の直前です
この山岡鉄舟と西郷の会談ですでに降伏条件が決められています。それが以下のようなものでした。
- 徳川慶喜は備前藩へ預けること
- 江戸城の明け渡し
- 軍艦の引き渡し
- 兵器の引き渡し
- 家臣達の謹慎
などの7項目でしたが、①は「薩摩藩主が朝敵の汚名を着せられた時に主君を差し出せるか」と詰問し、変更されることとなっています。
江戸無血開城(1868年)
山岡鉄舟のお膳立てもあり、勝と西郷との2回に分けた会談がいよいよ実行されることに。
この会談で「慶喜が水戸で謹慎すること」など山岡と決めた条件に多少の変更を加えて話は上手くまとまり、次の日に総攻撃が予定されていた江戸城への攻撃は中止されたのでした。
こうして間一髪ではありましたが、誰も血を流すことなく4月11日には江戸城が明け渡されています。
なぜ新政府軍は江戸城無血開城の提案を受け入れたの?
これまで血気盛んに散々慶喜を追い落とそうと策を講じてきた薩摩藩がなぜ無血開城を受け入れたのでしょうか?それにはいくつか理由がありました。
無血開城を受け入れる際に最も影響したと思われるのが、西郷の会談相手・勝海舟との関係です。無血開城以前の長州征伐の際に行った会談で新たな道を示した張本人が勝であり、西郷は彼の影響からその後の行動を改めたほど。その勝との信頼関係以外の理由をここでは紹介します。
篤姫の存在
前薩摩藩主・島津斉彬の従妹にあたり、養女となってから第13代将軍の徳川家定の正室として大奥に入っていました。1年9か月の結婚生活の末に家定が急死(元々虚弱だった)した後に天璋院を名乗ります。
天璋院は、戊辰戦争で徳川家が存続の危機に陥ると島津家や朝廷に徳川救済・慶喜の助命嘆願に尽力。西郷にも書状が送られ、とにかく徳川のダメージを避けさせようとしていたようです。
ハリー・パークスからの抗議
新政府側に抗議したというハリー・パークスはイギリスの駐日特命全権公使です。
なぜイギリスが出てくるの?という話になりますが、当時の欧米列強は日本での影響力を拡大させようと裏ではバチバチしていました。
日本との交易自体に加え、隣国に清という大きな市場があったことも無関係ではありません。
その欧米列強の立場は様々で、新政府に接近していたイギリスのような国もあれば江戸幕府との親交が深いオランダやフランスのような国もあります。アメリカも新型艦の売買契約を旧幕府勢力と結んでいた動きもあったようです。
※イギリスは、旧幕府が相手では自由貿易の障害になると考えて新政府に接近していました。
国際的な新政府の扱いは単なる反乱軍に過ぎず、兵力差を考えても旧幕府軍がただで転ぶとも思えません。戦わないで国力を温存した状態で交易を行ったほうが遥かに利になります。加えて、パークスは慶喜に会ったことがありに会った際に絶賛していたと言う話も。
そのような背景から「恭順しよう」とする慶喜らの勢力に対し、わざわざ戦いを仕掛けることはイギリスやパークスの意に反していたようです。
こうしてパークスは新政府に圧力をかけ、江戸無血開城や徳川家温存の動きに影響を与えたとされています。
※パークス圧力説は決定的とも言える資料がないため、あくまで一説。ただ、圧力があるのも十分考えられる状況ではあったようです。
ちなみに、ハリー・パークスは局外中立の立場をとるよう、米・仏・普・蘭・伊といった列強各国との会談の中でどうにか取り付けました。これもイギリスの「国力の温存された状態で交易を行いたい」という意図によるものと考えられますね。
と、ここまでが江戸無血開城までの経緯になります。この後、慶喜は水戸へ移り謹慎することに。
一方で慶喜と同じく恭順姿勢を見せていた会津藩の松平容保でしたが、新政府はこれまで散々会津藩に痛い目を見せられてきた経緯から会津藩に対しては非常に厳しい対応をとっていくことに。
会津も会津で薩長との対立の最前線で動いてきたため信用できず、表向き恭順姿勢を見せつつも戊辰戦争に巻き込まれる備えをしています。こうして新政府軍との激しい戦いに繋がっていったのでした。