【徳川家康の女性遍歴】家康を取り巻く女性たちとうわさの御落胤と言われる人物
争いが絶えなかった戦国時代は自分も家族もいつ死ぬかわかりません。
無事に子供が生まれても、生存率が非常に低く江戸時代中期頃には10%後半という事を考えると、戦国時代はもっと低かったと想像できます。そのため、権力者たちはお家存続の為に多くの子供を残そうとしていました。
天下統治を果たした徳川家康も例外ではなく、側室との間に生まれた子供たちが幕府の未来を担う事になります。二代将軍・秀忠を筆頭に尾張・紀伊・水戸の御三家の藩祖を生んだもの側室です。
徳川家康の女性関係と色恋事情
どうする家康でもたびたびお手付きをしている徳川家康。
諸説ありますが、家康は生涯に正室・側室含め21人持ったと言われています。あの織田信長も正室含め11人と比較しても多い事が分かります。
家康の正室は、築山殿(瀬名)と後妻に豊臣秀吉の妹・朝日姫が居ました。子は築山殿との信康と亀姫しかおらず、朝日姫との間には子はいませんでした。
嫡男・信康が切腹した事を考えると、残り19人の側室が後の徳川家の子孫たちを生んだことになります。
幕府を開いたのが61歳のでした。
それ以前からの側室も多く、男子9人・女子4人を儲けています。
家康の女性の好みは人の内面を見る傾向があるようで、女中や未亡人を始め、中には人妻もいたようで結構自由気ままなスタイルだったようです。
11男5女と計16人の子宝に恵まれた家康。
- 10代で 2人
- 20代で 1人
- 30代で 4人
- 40代で 1人
- 50代で 5人
- 60代で 3人
家康は、瀬名の死後に正室を迎えていませんでした。
秀吉と家康が和解した時に、秀吉は妹・旭を家康の正室として送り込みます。これには、秀吉による家康の懐柔策と言う側面が強いので、夫婦関係というより人質と考えた方がいいかもしれません。
しかも、家康・旭ともに40代だったので、まさに形だけの婚姻でした。
女性好きで知られている秀吉は身分の高い女性を好み、まさに漁るように女性を迎え入れていましたが、家康は身分にこだわらず、身体が健康な経産婦を選ぶ傾向が強かったようです。※晩年は、若い女性が好みだったようで…
実際に、家康の側室は長生きした女性が多く、最後の側室・お夏は80歳、阿茶の局は83歳、結城秀康の於万の方は72歳まで生きています。
家康に最も愛された側室
家康に気に入られた側室として阿茶の局が居ます。
これまで家康は側室と表向きに絡むことはあまりしてきませんでしたが、阿茶の局だけは常にそばに仕えていました。
彼女は、周りへの気配りや調整能力に優れ、側室だけではなく家康の秘書的役割も果たし、戦場まで同行させるほどでした。身重で小牧・長久手の戦いに同行した事で、流産してしまい以降子供が産めなくなりました。
この時代、子供を産めなくなった側室は首になることが多いのですが、阿茶の局は暇を与えられることなく、生母の無くした秀忠と忠吉の養育を任されています。
阿茶の局は大阪の陣の外交でとても重要な役割を果たしました。
大坂冬の陣で苦戦したてた家康は、豊臣家と和睦を画策しますが、大坂城内は主戦論者が多く、和睦は難しい物でした。その和睦交渉を見事にこなしたのが、阿茶の局だったのです。
とは言え、阿茶の局のような扱いを受ける側室は特別で、家康は基本的に女性に対してはドライだったように感じます。
落胤と噂される人物
21人以上の正室と側室と書きましたが、これはあくまでも当然、子は生まれなかったが手を付けていた女性は多く、落胤と噂される人物が多いのも家康。
少なくても10人近い落胤がいたとされ、中には将軍や有力大名や幕府の重臣だったり様々います。ここでは、その落胤とされる人物を紹介しますが、話半分で見てください。
三代将軍・徳川家光 | 二代目将軍・秀忠とお江の間に生まれたのが家光。 家光が持っていたお守りの中に、父である家康のようになりたいと書いていある事や関連史料が見つかっている事から、実は家光と春日局との間に生まれた子供では?と言われてます。 |
豊臣秀頼 | 豊臣秀吉が高齢だった事で、様々な落胤説があるのが豊臣秀頼です。 通説では大野治長とも言われていますが、徳川家康や石田三成と言った名前も挙がっています。 |
土井利勝 | 二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の治世で側近として権勢を発揮したのが土井勝利です。 徳川家公式記録書【徳川実記】にも記載があるようです。 |
11人の息子と5人の娘をもうけた徳川家康。
常に生き残りをかけた戦いの日々で、どんなに優れていようとも、自身が死んでしまえば徳川家はすぐに滅亡の危機に瀕してしまいます。若いころ、今川義元が討たれた時に、後継者が氏真しかいなかった事で、主家の滅亡を目の当たりにしてきました。
織田家では、三人の男子が居ましたが、嫡男・信忠が亡くなると、その兄弟たちが争い、結果的にそれを秀吉に付け込まれる様を見てきました。また、その秀吉も、秀頼しか男子がいないために、家康が政権を奪っています。
子だくさんという事は、それだけ身内が多くなる事ですから、バックアップ機能として実際の勢力が大幅に増えることになります。家康の11人の男子は、それぞれ分家として兵を与えられた事で、徳川一門の層の厚さに繋がり、徳川家を倒すハードルを上げることに繋がりました。
こうした、家康の側室選びは、徳川家存続のために重要な戦略だったと言えます。その裏には、側室を大事に扱い、決して不幸な目に合わせなかった事も付け加えておきましょう。