北方民族の活動と中国の分裂 第一弾【三国時代~晋の建国】<中国史>
後漢末期の184年黄巾の乱をきっかけに漢王朝が瓦解し、三国時代へと移行しました。
やがて三国の中で最も有力だった魏の臣下の一族が晋を興しますが、晋内部の混乱に乗じて周辺地域出身の遊牧民たちが国を建国して晋は分裂。
新たに南方で晋の王族が国を復興(=東晋)させた一方で、華北では遊牧諸民族による争いの時代(=五胡十六国時代)が始まっています。
五胡十六国時代の間、東晋もずっと存続できていたわけではなく華北への反抗で成果を上げた武将が実権を握り東晋が倒れると、次々に国が興亡。最終的には華北で北魏が、江南で宋が生き残り、南北朝時代へと突入していったのでした。この分裂と動乱の時代は魏晋南北朝時代と呼ばれています。
今回はこの魏晋南北町時代のうち三国時代についてまとめていきます。
三国時代(220〜280年)
後漢末期になると、外戚や宦官が力を増して権力闘争。内部の腐敗が国の末端まで悪影響を及ぼす事態になっていました。そうした不満が渦巻いている中、184年に太平道と呼ばれる宗教の指導者と信者達が大規模な反乱を起こします。いわゆる黄巾の乱です。
これを漢王朝は各地の豪族などに官位を与えて事態を抑え込もうとしました。実際に参加した人と言えば、董卓・曹操・孫堅(孫権の父親)・劉備など。
この中で最初に頭角を現すようになったのは董卓です。当時の皇帝・霊帝が崩御し、政治的混乱に陥った隙を見計らって政権内で実権を握りました。
やがて董卓支配下の都には横暴が蔓延り、反董卓連合が出来上がります。その盟主になっていたのが家柄のめちゃくちゃ良い袁紹ですが、足並みがそろわず結局瓦解。どうしたもんかと思っていたら、董卓は側近で養子となっていた呂布に裏切られて殺されています。
こうした権力闘争を行っているうちに更に漢の力は衰え、群雄割拠の時代へと移っていきました。
曹操の台頭と劉備、孫家の動向
反董卓の同盟解散後も袁紹は群雄たちの中では威勢を振るっていましたが、官渡の戦いで曹操に敗れて以来勢いを失います。逆に曹操は中国の最も栄えていた地域(=中原)を手に入れました。
さらに後漢の皇帝・献帝を保護したのも曹操です。彼が政治の実権を掌握し献帝を傀儡とすると、最初は丞相、次に魏公、最後に魏王とその地位を上げさせ、周りよりも一歩リードしています。
ちなみに中原は北側に位置する場所ですから匈奴や烏桓といった遊牧騎馬民族とも戦いますが、曹操は無類の強さを発揮していたと言われています。
そんな曹操が官渡の戦いで中原を手に入れたのと同年、黄巾の乱などに参加していた孫堅の長男・孫策(孫堅はほかの戦いで既に死去)が刺客の襲撃により死去していました。孫策は生前に江東一帯(淮河以南~南シナ海に至るまでの地域)を平定しており、弟の孫権が兄の後を継いでいます。この地は後々「呉」の建国を築く礎となりました。
三国時代のもう一人の雄が劉備。彼は三国のうち最も遅い時期に入蜀しています。こうして後の三国時代を牽引する三ヵ国が出来上がっていったのです。
本格的な三国時代へ(220年)
やがて曹操が220年に死去すると、息子の曹丕が魏王として即位し父の丞相位を継ぐことに。さらに献帝に禅譲を迫って文帝として皇帝の座につくことで後漢が完全に滅亡し、魏が誕生しています。
これを機に劉備は蜀を、孫権は呉を建国。それぞれが初代皇帝として即位すると、名実ともに三国時代へと突入しました。
魏の内部事情とは?
三国のうち最も有力だったのは三国の中で一番豊かで栄えていた場所を確保していた魏でした。中国東北部の遼東にあり三国時代においても半独立を保っていた公孫氏を倒したり朝鮮半島~中国東北部にかけて存在した高句麗を討ったりして東北方向へもその支配下を広げています。
更に263年には蜀も滅ぼすことに成功。
そんな感じで魏にとっては表向き順調に進んでいる様に見えましたが、内部には別の問題が横たわっていました。
司馬一族の台頭
曹操の代では参謀として、さらに曹丕(文帝)の世話役として仕えていた司馬懿が、曹丕の魏皇帝へ即位する過程で大きな役割を果たしたことから更に大きな信任を得るようになっていました。文帝の崩御前には長男で皇太子・曹叡の後事を託されています。
その曹叡も30代半ばで亡くなると、今度は司馬懿だけではなく曹叡が厚遇していた曹爽(曹操の甥・曹仁の息子)も共に二人で第3代皇帝となる曹芳を支えるよう遺言を残しています。
が、司馬懿と曹爽に確執が生じて司馬懿が実権を奪われると逆にクーデターを起こして曹爽一派を誅殺。司馬一族が魏の権力を完全に掌握した2年後、司馬懿は死去しました。
この司馬一族が魏の内部で力を持ちすぎたことで、魏王朝には暗雲が立ち上ることとなっていったのです。
晋の建国(265年)
司馬懿の死後、息子の司馬師が力を持つようになりますが病で死去。嫡子がいなかったため、その後は弟の司馬昭が兄の職務を継ぎました。
司馬師の段階で既に皇帝は傀儡となっていましたが、そうした司馬氏の専横を嫌って司馬昭の代で当時の皇帝・曹髦が兵を挙げるも鎮圧して殺害。
皇帝弑逆の罪はマズいのか実行犯一族を殺害して場を治めようとしますが、流石に事が大きすぎたこともあって何とか挽回しようと蜀漢の討伐(加えて晋への禅譲や呉の討伐も画策)を画策し実際に263年の討伐に繋がったようです。
曹髦が殺害されて次に皇帝としたのが曹操の孫にあたる第5代皇帝でした。司馬昭は皇帝に晋公を、翌年には晋王就任の詔を出させ、嫡子の司馬炎を跡継ぎと定めています。
この司馬炎が皇帝に禅譲を迫り、帝位について改めて晋を建国したのでした。