絵で見る、シッカリかつ分かりやすい応仁の乱
守護大名家の家督争いの激化
少し視点を変えて、目を将軍家以外に向けてみることにしましょう。
実を言うと、応仁の乱前の各諸大名家では家督争いが絶えませんでした。その原因が、どうやら畠山氏と細川氏の代理戦争のような形でお家騒動が頻発…といった裏事情もあったようです。
畠山家がいよいよ自分の代替わりとなった時、例に違わずお家騒動が勃発してしまいます。が、名家の家督争いは畠山氏だけではありません。同じく三管領の一角・斯波氏の家督争いも勃発していました。享徳の乱の時にお家騒動で離脱したお家です。
室町幕府の政権運営をするはずの三管領のうち二つがお家騒動に発展していることから、どれだけ政治が滅茶苦茶になったかは想像に難くありません。
畠山氏の後継者争いとは?
時は細川・山名氏の関係が悪化していない頃まで遡ります。
畠山家では元々庶子の義就が継ぐことで決まっていたのですが、一部の家臣が納得しておらず家督は弥三郎(政久とも呼ばれている)を擁立すべきと争っていました。
というのも、義就の父が義就を指名する前に持国の弟・持富を後継者として指名していたのに
として、嫡子ではない義就を後継者として指名してしまったためです。持富に近い家臣などは反対するに決まってます。
持国・義就派と持富派、それぞれを推す家臣達の対立が生まれていた中で、1452年に持富が死去。その際、持富の長男・弥三郎を後継者にすべきと訴えた家臣を持国は誅殺してしまったのです。
細川・山名両氏は持国と敵対していたこともあって弥三郎支持に回ります(当時の大名達の家督争いは周りの権力者たちが介入するのは日常茶飯事)。この騒動で勝元は弥三郎を匿ってもいたようです。お家騒動で持国は隠居させられ、弥三郎が跡を継ぐことになりました。
これを知った将軍の義政は弥三郎に跡を継がせる一方で、武家の裁判の基本中の基本『喧嘩両成敗』を実行。勝元や宗全は被官を命じられます。
この処分に対する勝元・宗全二人の反応は…
こんな感じだったそうです。足利義政は細川勝元に山名宗全の討伐命令を出しますが、勝元の嘆願により隠居のみで騒動はひとまず決着。この時点で少しずつ勝元と宗全の向いている方向性に違いが出始めます。
持富の死から3年経ち持国も亡くなると、新たに
義就 vs. 持富の長男・弥三郎と次男の政長の対立が鮮明となってきます。
その後、家督を奪還するべく弥三郎を京から追い出した義就(←この義就、かなりの武闘派です)が家督を継ぎ、追い出された弥三郎は勝元に庇護を求めます。
ここで思い出してほしいのが、義就の畠山氏を継いだ経緯。
このように将軍・義政は元々義就を支持していたのですが、義就は将軍の命だと偽って各地に攻撃をしかけたり義就の家臣が他所の所領を横領したりで義政の信頼を失うはめに陥っていました。
細川勝元の場合、立場的にも信頼を失った義就より弥三郎を推す方が優位に事が進むでしょう。庇護も求められたこともあって弥三郎を支援していきます。ところが、1459年に当の本人が病死。
その意思を弟の政長が引継ぎ勝元の取り成しも得ると、将軍・義政は義就を失脚させ畠山氏の家督を政長に変更させています。
一方の義就ですが、将軍の足利義政と折り合いがつけられなくなっていた山名宗全と結びつくようになっていきます。
というのも、宗全は以前起こった将軍暗殺事件【嘉吉の乱】で守護職没収されていた赤松氏を再興させるという話が持ち上がっており、それに対して強く反発していたためです。宗全は赤松氏の元守護だった地域の守護に任命されているので反発は当然の話でした。
こうして畠山氏のお家騒動では
山名宗全・畠山義就 対 細川勝元・畠山政長
の構図が出来始めていきます。
斯波氏の家督争いとは?
今度は同じ三管領の斯波氏に目を向けてみましょう。
先代の斯波本家の当主には子がおらず、一族の中から選ばれたため家臣から反対されていた義敏。1459年、享徳の乱の征討軍総大将として任命されながら本拠地で家臣筆頭との合戦勃発を前に将軍の命を無視してしまいます。将軍からの印象は最悪です。
その上、その家臣の遠戚にある将軍側近が義敏を讒言。結果、義敏は罷免されて3歳の実子・松王丸(義寛)が跡を継ぎますが、この松王丸も義政により廃され、今度は斯波義廉(よしかど)が継ぐことに。
この義廉は斯波氏出身ではなく渋川氏出身です。どうやら幕府側の関東政策の絡みで義政が推したとも言われています。幕府の関東での拠点・堀越公方に軍を送らないとダメな状況だったため援軍を期待しての人事でしたが、斯波氏と渋川氏の間はものすごく薄い親戚関係ということで義敏は大反対。
そうこうしているうちに、斯波氏の後継を義廉にしたものの関東情勢の変化で幕府は義廉の父親と敵対勢力の側に立つことになり、義廉の父親は失脚させられてしまいます。そのため斯波氏のトップを義廉にしておく理由がなくなったのです。
さらに義政の生母・日野重子が亡くなったのを機に大赦が行われ、義敏や松王丸が復帰するという状況に。
義廉自身、何年もトップの座についていたため義廉派の家臣も多くいたのですが、義敏は細川勝元や過去に讒言された将軍側近を味方につけて対抗しました。
こうして義廉は父の失脚に加え自らの立場も危うくなってきたため、義廉は山名宗全と畠山義就に近付くようになっていきます。