江戸時代、幕藩体制が揺らいだ理由とは??
1853年にペリーが来航し、日米間の条約が結ばれたのを皮切りに一気に開国へと突き進みました。その後、明治維新を経て日本も近代国家への仲間入りとなったわけですが、明治維新を行う原動力は外国に対する警戒心や反発だけでなく、幕府に対する不満があったからこそ生み出されたものです。
もちろん幕府の外国に対する弱腰外交に憤慨していたのも確かなのですが、それ以前からの歪みが蓄積された結果が倒幕運動であり、明治維新だったわけです。
今回は、そんな幕府に対する不満が募った背景を探っていこうと思います。
幕藩体制が揺らぐ前の社会を見てみよう
江戸時代に入り安定した政治が執り行われるようになると、軍事面以外の生活に直結する部分に税金や人を投入できるようになります。こうして16世紀から17世紀の間には治水工事や新田開発が積極的に行われ、田畑の面積が激増したのです。
生活に余裕ができた後、発達した産業とは?
他の時代にも共通することですが、生活に余裕ができるとほかの商品作物の生産を増やすことも可能になります。
室町時代には都市部で庶民の貨幣経済が浸透していましたし、商品作物を作る片鱗は既にあったわけで、江戸時代に入ってから商品作物を作る動きが加速したのは当然と言えば当然と言えるかもしれません。
農業
例えば、桑。桑の葉は蚕の飼料として用いられます。蚕は生糸(絹)を作り出し、その絹から西陣織や桐生絹、丹後ちりめんなどの織物が作られます。
もちろん絹に限らず、種子から油を搾りだせる油菜の栽培、染料として用いられる紅花や藍の栽培、綿やい草など地域の風土に合わせた商品作物が栽培されるようになり、それらの作物から発展させた別の商品が作られて特産物として流通するようになります。
漁業
九十九里浜(上総・千葉県)の地曳網によるイワシ漁、松前(北海道)のニシン漁などが有名です。これらの魚は加工され肥料としても売買されていきます。ちなみに先ほどの商品作物の例に挙げた油菜も搾り粕が肥料として使われるようになりました。こういった肥料の売買は農村部でも金銭のやり取りが広がる一因になっています。
こうして農業は好循環に突入。出回る食糧が増えれば増えるほど、その道一本の仕事で食べていける人も増えるわけで技術の発展が見込まれます。
その他の産業
さらに言うと、砂鉄の採集によって作ることのできる『たたら製鉄』が中国・東北地方で盛んになり、その製法で作られた玉鋼が全国に普及、多様な農具や工具に加工されたことも技術の進歩などに繋がっています。
工具が発展すれば林業にも好影響が出てきます。材木としての売買以外に薪や炭を大量生産することができるようになり、炭や薪が簡単に手に入れられるようになれば陶磁器も発展し金銭でやり取りできる商品が作られるように。
また、木材からできる商品として忘れちゃならないのが『紙』です。楮(こうぞ)という樹木の樹皮の繊維を用いて和紙が作られるようになりました。和紙が大量に作れるようになったことで、学問や文化の基盤が根付いていきます。
この和紙の大量生産が学問を上流階級だけの物から多くの層に広げることとなり、その幅広く学問を学べる環境が明治維新を支えた下級武士を育てたとも言えるのではないでしょうか。また、教育は治安をよくするのにも役立ちますから、紙の生産は江戸時代の安定した治世にも貢献しました。
交通網の発達
このように農業を中心として生産活動が大きく発展し、社会も進展していったのですが、もちろん商品は作るだけでは売れません。買ってくれる人のいないところで商品を作ったところでお金になりません。生産活動や社会の発達とともに発展したのが交通網です。
江戸時代に多くの人が集まっていたのは三都と呼ばれた江戸・大阪・京都です。更に城下町にも人は多く住んでいましたから、そういった三都を始めとする都市部と農村部をつなげる必要がありました。
当時の運搬技術だと大量の商品を運ぶのは陸路<海路。江戸や大阪、京に商品を運ぶのにも複数の港が必要になってきます。そんな理由から17世紀後半には『東廻り航路』と『西廻り航路』という海上交通網が整備され、港湾都市に人や商品が集まりました。
こうして商品の売買が多い三都に加え、城下町、港湾都市には富裕な商人が誕生。中には大名に貸し付けを行い、藩経済を一挙に担うほどの大富豪まで現れるほど貨幣経済が浸透していきました。
幕府が行った改革とは??
一方で民間が潤うのとは反対に幕府や藩のような大きな組織はなかなか時代に合った改革が進みません。徐々に財政が厳しくなっていきます。
というのも、江戸時代の税と言えば基本は米。年貢です。江戸幕府が始まってからの年貢の税率は『その年の収穫によって決める』検見法が一般的でした。
ところが、検見法の場合モチベーションが上がりません。たくさん収穫できても、その分税率が上がるため損した気分になります。それなら年貢として納めなくてもいい商品作物を作ったほうが節税できるし貨幣を得られます。幕府側にとっても収入が安定しないというデメリットがありました。
そういった状況の中、1716年に第7代将軍の徳川家継が8歳で死去。徳川宗家が途絶え、親藩である尾張・紀伊・水戸の三家のうち、紀伊藩主の徳川吉宗を将軍として引っ張ってくることに。もともと藩主をしていただけあって政治には積極的に関わりました。吉宗は様々な改革を行います。
それまで一般的だった検見法を改め、年貢率を一定期間同じ率とする定免法を取り入れ年貢率を引き上げる、参勤交代の負担を減らす代わりに上げ米(大名から石高1万石につき100石を臨時に献上させる)を実施するなどの財政改革に取り組みました。
定免法に変更したことである程度余力を持っていた農民たちは豊作時に米を貯められます。一方で土地が良くない、肥料を買えない農民たちは豊作年であってもあまり米は蓄えられません。こうして貧富の差が拡大することになります。
村々では貧富の差が拡大して有力となった百姓が村役人を務めるように。地主手作(零細農民を奉公人として使役する農地経営)を行いつつ、肥料や便利な農具を買えないような小百姓に土地を担保に手持ちの金を貸し出す者も出てきます。
小百姓はそのお金を返せずに豪農に土地を奪われ、
- 豪農が貸し出す田畑を借りて小作料を支払う小作人となるか
- 農業含む年季奉公に精を出すか
- 都市部に出て新たな仕事に就くか
の選択を迫られるようになります。もちろん都市部に出ても足元を見られるわけで、わずかな稼ぎしか得られないのは想像に難くありません。
さらに吉宗の改革では「金銀貸借に関する争いは幕府に訴訟せず自分たちで解決してください」という『相対済まし令』と呼ばれる決め事を作りました。このルールは商人や職人の経済活動をより自律的で強固なものへと変えることになります。
都市部と農村部の連携
「商品を作り、商品が売れる場所に持っていき、売る」この一連の流れの中で儲けを増やすためには何が必要でしょうか??基本的には
- 需要と供給の量を見極めること
- 仲介業者をなるべく減らすこと
現代でも通用する話ですが、江戸時代でも変わらないと思います。
そこで都市部の問屋が行ったのは村を牛耳っていた豪農との連携です。豪農の立場でも都市部の問屋と連携することには安定した収入が得られるというメリットがありました。
売るための品物はある程度の数を確保するよう、産地の百姓らに資金や原料を供給するのも忘れません。逆に商品を作りすぎて値崩れを起こしても困ります。そういった事情は都市部の問屋さんの方が把握していたはずで、豪農と連携することは商品数の微調整を行うのに一役買ったと思われます。当然、流通の主導も行います。
こうして、『農村部でそれぞれの家庭が農業の合間に商品を作っていた副業的な生産活動』いわゆる農村家内工業の形態から『問屋を介して商品生産を行う』問屋制家内工業の形態へと変化していきました。
これだけ商品が流通する条件が整うと、都市部では働き手が必要となります。そうなると農村部の小百姓たちは「都会に行けば何かしら働けるだろ」と都市部に出ていくわけです。
農村部の小百姓たちは元々自給自足を営んでいた人たちですが、そういう人たちが都市部で貨幣経済の元で働くことになります。吉宗の改革だけではなく、これらの生活形態の変化が大きい状況で物価の上昇や飢饉や災害が起こるとどうなるか・・・
当然、都市部に出てきた自給自足の生活が崩れてわずかな貨幣収入で暮らしている層の生活は一気に破綻してしまったのです。
飢饉と改革、一揆の発生
江戸時代は小氷期だったと言われ、その上、世界的に(日本も含む)火山活動が活発な時期でもありました。飢饉や災害が頻発します。
江戸の四大飢饉と呼ばれる飢饉のうち江戸時代の半ば~後半に起きたのは
- 享保の大飢饉(1732年)
- 天明の大飢饉(1282~1287年)
- 天保の大飢饉(1833~1839年)
の三つです。
そのうち最も大きな被害をもたらしたのは天明の大飢饉でしたが、百姓一揆の数は断トツで天保の大飢饉時に集中しています。時代が下れば下るほど一揆が増え社会が混乱していくようになるのが分かります。この混乱に幕府は対応を迫られ、複数回改革を行いました。
吉宗後、最初に改革を行った田沼意次は頭打ちとなった農業に代わって商業にその財源を見出そうとします。目の付け所はよかったのですが、重商主義を掲げ商人優遇政策をとると「不正の温床となっている」として反対する者が増加。
追い打ちをかけるように天明の大飢饉となり失脚。この頃の政情不安で無宿と呼ばれる戸籍から名前を外された者が多く発生しています。
田沼意次に代わって改革を行った松平定信による寛政の改革では弱者を保護する政策を行いますが、一般庶民に対しては厳しい節約を要求したことで反発を食らい失脚。
最後に水野忠邦による改革も行いますが、幕府財政の悪化がこれまで以上に進んでいたこともあって無理な政策を行い失敗。こちらも松平定信路線で倹約を軸に置いていて大奥から大反発を食らったなんて話もあったようです。
※一応水野忠邦を擁護すると…
水野忠邦時代(1841-1843)には経済面でも問屋制家内工業から『地主・問屋商人が作った作業場で複数の奉公人が作業をし協業で製品化させる』マニュファクチュア(工場制手工業)に変化。それまで以上に資本を持つ者の優位が確立して力関係が『大名<資本家』のケースも出現し、改革が難しくなっていたという時代背景がありました。
また、外国船が頻繁に訪れるようになっていて海岸線の防衛強化にも絡めて年貢を確保しつつ領地を整理しないといけないという難題にも取り組まなければならない事情も改革失敗の要因だったと思われます。
元々幕府が一揆を禁止していたこともあって享保の飢饉頃はそこまで大きな一揆の発生にはなってなかったのですが、これらの飢饉・改革を経験し、少しずつ幕府に対する不満が蓄積していくと一揆が増えたのです。
天明・天保年間に発生した一揆では田沼時代に多く発生した無宿などの『悪党』主導による百姓一揆から外れた一揆が多発したそうで、当然、治安も悪化していきます。特に天保年間の一揆は犠牲者が最も多いはずの天明年間に起こった一揆よりも増えており幕府の影響力が低下していることは一目瞭然でした。
雄藩の誕生
各藩もまた、そんな火の車状態の中で改革を実行せざるを得ない状況に突入。改革が失敗し、そのままズルズルと延命していく藩も多かった中で改革が成功した藩も複数出てきます。その代表的な藩が薩長土肥と呼ばれる薩摩(鹿児島)・長州(山口)・土佐(高知)・肥前(佐賀)といった藩です。
それぞれの藩の改革には、中・下級武士であっても有能であれば取り立てていくという共通点がありました。藩士のための学問所(藩校)があり、優秀な人材を育てる場所も存在しています。もちろん藩校は他の藩にも存在していますが、薩長土肥の場合はその教育機関がかなり優秀だったようです。
土佐の場合は政権内部の権力闘争が苛烈で、その権力闘争の最中に謹慎となった吉田東洋が私塾を開いて人物が育っているので他の3藩とは少々異なります。藩校は土佐藩にもありましたが、明治維新の原動力となったような人物は藩校ではなく吉田東洋の私塾出身です。
明治維新の立役者の一つ、長州藩にあるのは藩校の明倫館。日本三大学府の一つと呼ばれるほど教育に力を入れていました。
長州藩の財政を立て直す中心的役割を果たした村田清風は、この明倫館で学費を免除されるほど優秀な成績を修めた人物。経済面を立て直すだけでなく教育にも力を入れています。結果、生まれたのが、吉田松陰や木戸孝允、高杉晋作など明治維新に欠かせない人物たちです。中でも吉田松陰は藩士でなくても学べる私塾・松下村塾で指導を行い、明治時期の指導者を多く輩出。後の歴史に影響力を与えています。
肥前や薩摩藩の藩校は国学・漢学に留まらず、医学・化学・物理学・西洋兵学なども学ぶことができ、今でいう総合大学のような形態の学校を作っています。
雄藩がそれぞれ選んだ道とは…??
長州や土佐では藩内の意見が真っ二つで分かれました。どこの藩も改革を進められる人材を育成していますから、自分の意見・考えを伝え実行するような能力が育てられていたためでしょう。土佐は藩主の山内容堂が「酔えば勤皇、冷めれば佐幕」で態度をハッキリさせてなかったのも理由と思われます。
肥前の藩主は割と幕府の重臣だった井伊直弼とも交流があり、早い段階で海外との国力の差を感じていたことから不平等条約と呼ばれた条約の締結にも多少理解があったようで、学問を倒幕の方向には使わず技術面で用いていったようです。
薩摩の場合は、斉彬の時代に養女の篤姫を将軍家に輿入れさせ国政への影響力を行使しようとする布石を既に打っており、他の維新の中心的な役割を担った藩とは違う路線を歩んでいます。
ところが、幕府側の一橋慶喜に国政の改革路線を潰され、倒幕に傾いていったようです。
以上のように
- 幕府・各藩ともに社会情勢の変化により改革を余儀なくされた
- その中で改革が成功した藩は先進的な考え方ができるような教育を行っていた
- 先進的な考えの者が藩政を担うようになり、倒幕の方針に傾く藩も出てきた
- 財政的にも豊かな藩だったため、実行力を兼ねそろえていた
ことが幕藩体制を揺らがし、倒幕の流れに時代が動いていった背景だと考えられます。結局、時代は『人が動かす』ってことなのではないでしょうか?