ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本艦隊のやってのけた作戦とは!?
近代戦争で最も大きな金星は、日露戦争でしょう。
その中でも【日本海海戦】は、日露戦争の勝敗を決めた戦いとも言われており、その後の日本海軍のターニングポイントともなりました。
ロシア・バルチック艦隊が極東へ…
明治38年1月1日に旅順を占領し、ロシア太平洋艦隊の撃退で当初の目標は達成した日本軍ですが、明治37年10月にロシアの艦隊であるバルト海艦隊が、極東地域に援軍のため航海を開始しました。
バルト海艦隊(バルチック艦隊)は、旅順陥落の知らせを受けても極東水域の制海権奪取と満州方面の陸戦での戦局の打破を図るため、極東へ向いました。
『バルチック艦隊が極東へ…』の知らせを受け、日本軍は旅順占領後にバルチック艦隊撃破態勢を整え始めます。約3か月の間、猛特訓を積み、各艦隊の砲戦及び水雷戦の技量を大きく向上させてつつ、戦艦をドック入りさせて整備も整えました。
極東地域では、唯一ウラジオストクがロシアの艦隊根拠地のためロシア艦隊は、対馬海峡から日本海を北上するか、太平洋を回って津軽海峡か宗谷海峡を経由する三航路が予測されました。
日本軍は、バルチック艦隊をどこの航路で迎撃するかを航路の予測をし、上記の三航路の中で、対馬海峡経由を通る航路を選びロシア艦隊を待ちました。しかし、予定を過ぎてもロシア艦隊の発見が無いため、対馬から津軽・宗谷海峡突破の可能性を考え始めた日本軍ですが、東郷平八郎司令官の決断により対馬海峡でロシア艦隊を待ち続けました。
明治38年5月27日に済州島付近を哨戒中だった『信濃丸』がバルチック艦隊を発見。
この時、午前4時45分の事でした。
『敵艦隊、対馬海峡ヲ通過セントスルモノノ如く見ユ』と信濃丸からの知らせを受けた後、午前6時に旗艦『三笠』より全艦隊に出撃命令が出されました。
日本連合艦隊は、日露戦争勝利を決定付ける決戦に向かい全艦出動していきました。
連合艦隊がバルチック艦隊を視界にとらえたのは、午後1時39分の事でした。
この時、敵艦隊との距離は13キロだったと言います。
『皇国ノ興廃ハコノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ』のZ旗※が戦艦三笠に掲げられ、午後2時にはロシア艦隊の北方に居た日本艦隊は西南西に、ロシア艦隊は反航する形で北東に向かいつつありました。
※Z旗 ↑
ロシア艦隊も驚いた東郷ターンの開始!!
このまま進めば、日本艦隊は短時間の反航戦の後、長い追撃戦を行うはずでしたが、日本艦隊は大きく左に舵を取ります。
有名な【東郷ターン】を開始します。
別名【T字戦法】と呼ばれているそうです。
簡単に説明すると、
『敵艦の進行方向を遮るように進み、一斉砲撃をする』
作戦で、昔から【海戦】と言えばこれでしょ?と言うくらい有名な戦法で、東郷平八郎のオリジナルではありません。
この作戦のポイントは、船が攻撃できる方向にあります。
歩兵や戦車では、進行方向に攻撃するのが一番ですが、船の場合は進行方向に対して左右が一番攻撃力が高まります。船のつくりを見ると、その理由は一目瞭然です。
この作戦での一番難点は海上と言う点で、海では風向きや波を計算に入れなくてはいけません。そんな状況で正確に、敵船に真横に向けつつ移動するのは至難の業でした。
この戦法は理論上最強なのですが、実用性は皆無でした。誰もがやるだけ無駄で、やったところで横から激突されて終わりだろうと誰もが思っていました。実際に、この動きをした日本軍に対してロシア側は、『日本軍がヤケクソになった』と思ったほどで、それくらい、成功率が低い作戦が【東郷ターン】でした。
これはまぐれでもなく、明治37年8月10日に行われた黄海海戦の教訓が生かされているようです。東郷司令官と秋山真之参謀は、黄海でも同じ戦法を実施しますが、コテンパンにやられてしまいます。
黄海での失敗を基に試行錯誤したのが、【敵艦隊の先頭を押さえる】と言う事。その解決策として、連携水雷作戦【敵艦隊に機雷源への突入か砲撃の選択を強いる】ものでした。しかし、決戦当日の天候が悪く、その作戦は実行できませんでした。
そこで次の改善策として、敵前駆逐回頭と言う敵の盲点を突く作戦でした。日本連合艦隊の俊敏性を活かし、強引に敵を同航砲撃戦に持ち込むことにしました。
日本海海戦開始
ロシア艦隊と並行針路に入った数分後に、ロシア艦隊は7~8㌔の距離まで接近し、日本艦隊へ砲撃を開始します。日本側にも戦闘開始命令が下り、旗艦三笠の発砲開始を皮切りに戦闘開始します。
約一時間続いた日露艦隊の砲撃戦は、ロシア戦艦より素早い日本艦隊が、徐々にロシア艦隊の頭を迎える形で戦闘を行い、主導権を握りました。そのころには、先頭に居た【三笠】は、バルチック艦隊を右舷側に30隻以上が見渡せる位置に居ました。
その後、日没まで戦闘が続き、夜を迎えるころには戦果を拡大し、夜明け前の夜戦でも駆逐隊と水雷艇隊の夜襲により、ロシア艦隊にさらにダメージを与えます。
そして、28日午前10時34分に残ったロシア艦隊が、日本へ降伏しました。
日本とロシア両軍がほぼ同等の主力艦隊を持って、決戦した【日本海海戦】は、ロシア側被害が21隻沈没、6隻降伏の計27隻が喪失する大損害を被りました。結局ロシア領内に戻ったのは、巡洋艦1、駆逐艦2、特務艦2の5隻のみでした。
これに対して日本の損失は、水雷艇3隻にとどまり、日本海海戦では日本海軍の完勝で幕を閉じることになります。これにより、ロシア側に戦争継続を断念させたのは言うまでもありません。
バルチック艦隊の敗因は?
ロシアの最新鋭艦隊4隻を率いたバルチック艦隊が日本海で忽然と消滅した事実は、イギリスやアメリカなどの強国を驚愕させました。では、ロシアの艦隊はどうして負けてしまったのか、考察してみたいと思います。
長期間の航海
バルチック艦隊は、明治37年10月15日~明治38年5月27日までの半年以上の航海を続けていました。初めての極東への航海に、旅順を撃破した日本軍への恐れなどが海兵の間で潜在的に蔓延していたそうです。
また、ベトナムのカムラン出港からウラジオストクまで寄港できない事から、各艦は石炭や大量の補給物資を積み込んでおり、積載オーバーをしていました。これにより、水線上の高さの減少や復原力※低下に繋がり、日本海海戦における沈没の原因となりました。
※復原力とは、釣り合った位置から水上で直立している船を静かに傾けた時、元の位置に戻ろうとする力。
長期航海では、船底に着いた貝やフジツボを2か月に1回程度落とします。これは、ドックに入れなければできない作業で、航海中の港を確保できなかった艦隊はこの作業ができない状態で、6か月の間に艦隊は徐々に最高速度を落としていく結果となりました。
また、燃料の石炭も無煙炭をできなかった結果、船自体のスピード低下や黒煙の発生により船の位置を敵に発見されると言う失態を犯してしまいました。
兵の編成の違い
ロシアでは、貴族の上級士官が庶民の兵を支配する構造になっていました。
上官と兵士の関係ではなく、主人と奴隷みたいな関係の軍隊で、しばしば対立や非効率を生んでいました。この時期は、ロシア革命につながる自由思想の芽が開き始めたので、無能な上級士官への反発が士気を極端に削いでいました。
ロシア海軍の水兵のうち優秀な者は、太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊は水兵の質も低かったそうです。
6か月の長い航海で疲れ切った艦隊は、日本軍の戦闘を避けウラジオストクにいったん引いてから休養を取った後に日本軍と対峙しようと考えていたそうです。そのため、日本戦艦と対峙した時も終始、守りの体制を取っていました。
そのため、自軍に有利な状況での戦闘を繰り広げられなかったとされています。
日露戦争後、東郷平八郎はバルチック艦隊の不備を指摘し、『ロシア艦隊が縦二列で来たのが間違いの元で、力の弱い第二艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに痛められた。あの時、単縦陣でこられたらこのような結果にならなかった』と述べたそうです。
※2019年1月9日 更新