なぜ、源頼朝には【の】が付いているのに徳川家康には【の】が付いていないのか?
- 蘇我入鹿 そがのいるか
- 藤原道長 ふじわらのみちなが
- 源 頼朝 みなもとのよりとも
- 足利尊氏 あしかがたかうじ
- 織田信長 おだのぶなが
- 徳川家康 とくがわいえやす
上記の人物は皆さんもよく知っている各時代の有名人の名前です。
6人のルビを比べてみると、上の3人は【の】が付いているのに対し、下の3人は【の】が付いていないことが分かります。
試しにパソコンで【そがのいるか】と打つと蘇我入鹿ときちんと変換されます。しかし【おだののぶなが】と打つと、小田野信長と変換されてしまいます。
他の6人以外に【の】が入る人そうで無い人を書き出してみました。
「の」が入る人
平将門、菅原道真、在原業平、阿倍仲麻呂、平清盛、源義経
「の」が入らない人
北条時宗、楠正成、斎藤道三、上杉謙信、武田信玄、織田信長、真田幸村
これを見ると鎌倉時代を境に、名前に【の】が入らない事が何となくわかります。
では、【の】が付く、付かないはどういった区別をされているのでしょうか?
「の」が付く人と付かない人の違いは、上の名前の性質が異なっている事です。
どう異なっているのかと言うと、一見同じに見える名前ですが【藤原】と【徳川】では性質が違うということなのです。
【の】が入る人の上の名前は【本姓(氏)】
本姓とは、明治以前の日本においての【氏】の事を言います。苗字や家名とは異なる【本来の姓】と言う意味だそうです。
本姓(氏)が一緒ということは、先祖が一緒ということです。
時代が進むにつれて、親子や兄弟で一緒に住み結びつきが強かった一家も、一緒に住まなくなり結びつきが希薄になるかもしれません。しかし、どれだけ世代が進んでも先祖は共通です。本姓(氏)が同じということは、赤の他人に見えても先祖が同じということを意味しています。
本姓(氏)の後には格助詞【の】を入れるのがルールで、例えば蘇我馬子は、蘇我氏に属する馬子、源頼朝は源氏の頼朝と言う意味になります。
では、【の】が入らない人はどうなのでしょうか?
「の」が入らない人の上の名前は苗字(名字)で、苗字とは家の名前の事を指します。
本姓(氏)は先祖を同じくする証に対して、苗字は家系(家族)を表す単位なのです。
それでは、なぜ本姓(氏)があるのに苗字が使われるようになったのでしょうか?
かつて政治は、本姓(氏)中心で動いていましたが、時代が経つにつれて氏と言う大きな単位でなく、もっと細かい単位が重要になった事で苗字が生まれました。
氏と苗字の関係は、例えるなら〇〇高校と言うのが氏で、〇年〇組と言うのが苗字と言った感じの関係と思ってもらえればわかりやすいと思います。
そうすると、徳川家康の徳川は苗字ということになりますが、苗字が使われているからと言って、家康に本姓(氏)がないのかと言うとそうではありません。
徳川家康の氏は、元々源氏だと言われています。一方で、織田信長は、平氏の流れを汲んでいると言われています。
【の】が付くはずなのについていない有名な人物
本来は【の】が付くはずなのに一般的な呼ばれかたでは、【の】が入っていない人物がいます。
それは…
豊臣秀吉です。
一般的に秀吉は、以下のように改名をしていきました。
木下藤吉郎
↓
木下秀吉
↓
羽柴秀吉
↓
豊臣秀吉
秀吉は、「木下」→「羽柴」→「豊臣」へと改名してます。本来、苗字と氏の概念は別次元のものなので、名前を変更するときは、【苗字→氏】や【氏→苗字】と言った変更は一般的にありえませんでした。そのため、一般的にはいずれも苗字と捉えられている事が多かったため【の】が付いていないと考えられます。
本姓(氏)は、朝廷から下賜されて初めて自称できるので、豊臣姓は苗字ではなく氏なのです。よって、豊臣秀吉は、正確に言うと【とよとみのひでよし】と呼ぶのが正しいと言うことになります。
そうは言っても、教科書やドラマ等ではそう呼ばれている例はほとんどないのが現状です。しかし、2016年の大河ドラマの真田丸で、秀吉が『とよとみのひでよしである』と言い、テレビの画面にも【とよとみのひでよし】と書かれていたそうです。
豊臣姓だった武将は結構多い
天皇から豊臣姓を賜り天下を取った豊臣秀吉は、何かあるたびに家臣だけではなく、広範囲に豊臣姓を与えていました。
豊臣政権下では、秀吉が官位を与えると言えば好き勝手に官位を与えることが出来ました。その官位を与えるついでに『豊臣』の本姓を与えました。当然、いらないと思う人もいたでしょうが、天下人のご機嫌が悪くなるため、渋々もらっていたようです。
こうした豊臣姓のばらまきにより以下の武将が隠れ豊臣姓をもっていました。
「豊臣」の本姓が与えられた人物
真田信繁(幸村)
秀吉より従五位下左衛門佐(さいもんのすけ)に叙任される際に、豊臣姓も下賜されました。叙任の際に『豊臣朝臣(とよとみのあそん)』と呼ばれています。
真田信幸(信之)
真田信繁と同じ日に伊豆守(いずのかみ)の官位を賜り、同時に「豊臣」の本姓も授けられました。
徳川秀忠
二代将軍・徳川秀忠も「豊臣」の本姓をもらってました。したがって、秀忠は豊臣秀忠だったということもできます。「豊臣」の本姓を持っていた時も、秀忠は徳川秀忠であることには変わりありません。
豊臣姓を賜ったその後
秀吉が死去したあとも、豊臣氏が無くなったわけではないので、豊臣姓は無くなっていませんでした。
しかし、江戸幕府開設後の大坂の陣で豊臣氏が滅亡したことにより【豊臣】の本姓を貰った多くの人は、その使用をやめ豊臣姓を名乗る者が居なくなったそうです。