天下布武を目指した織田信長の方面軍団の設置
織田信長は、他の戦国大名に先立ち最新兵器の鉄砲を大量に導入や方面軍の創設などの様々な軍事改革を行い、天下布武に邁進しました。
最新兵器の活用、独特な戦術や家臣の能力を最大限引き出した人材活用術を取り上げながら、織田信長軍団を紐解いていきます。
織田軍の強さの秘密
信長軍の強さの秘密は、
- 兵農分離
- 方面軍の創設
- 効果的な兵器の活用
にあります。
兵農分離については、この記事で詳しく書いていますのでこちらを参照してください。
この兵農分離によって、合戦は農閑期と言う常識を覆していつでも戦える軍隊を編成しました。かの武田信玄でさえ、農繁期には兵を引き上げたと言います。
方面軍団の設置
織田信長は美濃攻略以降の領地拡大に伴い支配の在り方に問題が生じました。
いくら信長といえども広大な領地を管理するのには限界があります。そこで信長は、おおむねの方針を示しつつ有能な家臣たちに一定地域を支配を任せることにしました。
この方面軍団の設置は、1570年頃から出始めます。
浅井・朝倉氏と争っている頃は、柴田勝家や佐久間信盛ら重臣を主要な場所に配置し、琵琶湖の東岸から南岸にかけて守備を整備し始めます。こうして、浅井・朝倉連合軍を徐々に追い詰めていきました。
柴田勝家率いる北陸方面軍団
信長が上京を果たし、各方面に進行するに従い方面軍団が形成されていきます。
天正3年に信長は、越前の一向一揆を討伐すると、越前の支配を柴田勝家を中心とする家臣団に任せました。さらには、加賀の一向一揆の討伐命令も出しました。最初は、梁田広正に任せていたようですが、思うような成果があげられず更迭されて柴田勝家に白羽の矢が立ちました。
この柴田勝家の率いる軍団は北陸方面軍団と呼ばれています。
最終的な目的は、きたる上杉との戦いが勝家には控えていたのです。
羽柴秀吉率いる中国方面軍団
天正5年には、羽柴秀吉に中国地方の攻略を命じます。
秀吉は、播磨国の上月城の攻略に成功すると、三木城、長水山城、鳥取城と次々に攻略をしていきました。こうして秀吉は信長の信任を厚いものとして、天正10年の備中高松城の攻略に挑むことになります。
その傍ら、秀吉は播磨国の支配を任されていました。三木城陥落後には、秀吉による三木の町の復興に尽力をしています。
明智光秀は機内統一の命を受けていた
機内方面を任されていたのは、明智光秀でした。
天正3年以降、光秀は丹波攻略を信長より命じられていました。しかし、八上城の波多野秀治の裏切りによって苦戦を強いられていました。
その合間に光秀は大和、播磨、摂津方面に応援に駆け付けるなど転戦しながら、ようやく八上城を落城まで持っていきました。その後、光秀は亀山城に居を構えて、丹波の支配をすることになります。
関東方面軍団は滝川一益・四国方面には織田信孝
その他、関東方面には滝川一益を置き、北条や東北の伊達、上杉をけん制し、四国方面には、神戸信孝を総大将とした四国方面軍も急きょ編成されることになります。
四国方面を編成した同じ年に信長は、本能寺の変により落命し、信長の天下布武はここで終わりを告げることになります。
この方面軍は、信長の一定の方針を基に、各軍団長が独自性を発揮してことにあたってたとされています。とは言え、一定の成果が出ないと、容赦なく更迭されてました。
天正8年の石山本願寺が降伏しましたが、あまりに時間がかかりすぎたため、指揮を執った宿将である佐久間信盛を高野山に追放したのは有名な話です。
それゆえに、司令官を任された武将は、心休まることもなく、時には信長に疑心暗鬼を抱いたことでしょう。そのため、信長に反旗を翻した大名は後を絶ちませんでした。その理由は、やりすぎまでの成果主義が反映しているのかもしれません。