豊臣兄弟!

豊臣秀長は「守銭奴」だったのか?郡山城の財宝と『多聞院日記』の辛口評価

歴ブロ

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、若き小一郎がお金に細かく、堅実に貯金をしている描写がありました。

兄・藤吉郎を支えながら、コツコツ蓄えを増やしていく姿はどこか堅実さを感じさせます。しかし、この描写を単なるドラマの創作として片づけるには、少し気になる史料が残されていました。

史実の豊臣秀長は、秀吉の弟として大和・紀伊・和泉などを支配する大大名になりました。さらに四国攻めや九州攻めでも大軍を率い、豊臣政権を支える重要人物となります。

ところが秀長の死後、居城だった大和郡山城から莫大な金銀銭が見つかったと『多聞院日記』に記されています。しかも、かなり冷ややかに記されています。

今回は温厚な名補佐役として知られる秀長のもう一つの顔を『多聞院日記』の記録や大和統治の事情から考えていきます。

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秀吉の名補佐役・豊臣秀長とは?

豊臣秀長といえば、「秀吉の名補佐役」としての姿でしょう。

秀長は兄・秀吉が織田家中で出世していく過程を支え、本能寺の変後も山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、四国攻め、九州攻めなどで重要な役割を果たしました。

特に播磨攻めの頃になると、秀長は単に「兄のそばにいた弟」ではなくなります。

秀吉が別方面で動いているとき、秀長はその名代として大軍を預かる機会が多くなります。これは、秀長がそれだけ秀吉に深く信頼されていたことを示しています。

また、秀長は諸大名との「調整役」としても有名です。

秀吉が強い態度で相手を動かす一方、秀長が間に入って摩擦を和らげた、という見方もあります。そのため、秀長には「温厚」「堅実」「調整役」というイメージがつきました。

豊臣政権は、秀吉という強烈な個性を持つ人物を中心に動き、その中で秀長は政権の内側を支える調整役だったといえます。

もし秀長がもう少し長く生きていれば、豊臣秀次切腹事件や朝鮮出兵をめぐる政権内の混乱も、違った形になっていたのではないか。そう考える人がいるのも、秀長がそれだけ政権にとって重要な人物だったからでしょう。

お金にはシビアな弟・小一郎秀長

ところが、史料に見える秀長像は、それだけではありません。

お金に関しては、かなりシビアな人物だったという記録が残されています。

有名なのが、死後に大和郡山城から莫大な金銀銭が見つかったという話。

『多聞院日記』によると秀長の死後、郡山城の金銀銭を調べたところ、金子は五万六千枚余、銀子は二間四方の部屋に積まれており、銭もどれほどあるか見積もれないほどだった、という趣旨の記録が残されています。

これだけを見ると、たしかにかなりの財産です。

戦国大名が財を蓄えること自体は不思議ではありません。軍事行動や城の維持にも、家臣団の統制にも、寺社や公家との交渉にも金は必要です。

ただ、『多聞院日記』はこの財を好意的には見ていません。

ニュアンスとしては、これほど財をため込んでも結局は死んでしまえば本人の役には立たない、というような冷ややかな調子で記しているのです。

ここだけ切り取ると、秀長は「金をためることに執着した人」「守銭奴」と見られてもおかしくありません。

大河ドラマで描かれた「コツコツ貯める小一郎」と、郡山城に残された莫大な財宝の逸話。

この二つをつなげると、ドラマ終盤への伏線のようにも見えてきます。

(答え合わせは12月にでも)

『多聞院日記』をどう読むか…

『多聞院日記』とは奈良の興福寺多聞院の僧たちが書いた日記。近畿一円の動きを知るうえで非常に貴重な史料ですが、そこに書かれた評価をそのまま秀長の「人物評」として受け取るのは注意が必要です。

『多聞院日記』は豊臣政権の中心から見た記録ではなく、大和の寺社側から見た記録

これが重要です。

秀長が治めた大和国は、東大寺、興福寺、春日大社など、有力な寺社勢力が強い土地でした。中世以来、寺社は単なる宗教施設ではなく、土地や人々を支配する政治的・経済的な勢力でもありました。

その大和に豊臣政権の支配を浸透させるには、旧来の寺社勢力をそのまま放置するわけにはいきません。

検地を行い、所領を整理し、武装や独自の権益を制限し、豊臣政権の支配秩序に組み込んでいく必要がありました。

これは、大和の寺社側から見れば、自分たちの既得権が奪われていく過程でもあります。

ようするに、『多聞院日記』に見える秀長への辛口評価には、支配された側の不満や警戒心が含まれていた可能性があるのです。

秀長のお金に関するエピソード

秀長のお金にまつわる逸話は、郡山城の件だけではありません。

『川角太閤記』には、九州攻めの際に届いた兵糧米を全軍に無償で配るのではなく、味方に高値で売ったという話が書かれています。戦場で命に関わる兵糧を味方に高く売ったとなれば、「そこまで金を取るのか」と思われても仕方がない行動です。

ただし、『川角太閤記』は後世に成立した軍記物なので、すべてをそのまま事実として扱うには注意が必要です。

戦国武将の逸話には、人物像をわかりやすく見せるために話が強調されることがあります。秀長の場合も、「金に厳しい人物だった」という印象が、後の逸話の中で強められた可能性はあります。

また、紀伊国の材木売上をめぐる疑惑もあります。

秀長の支配下にあった紀伊は、豊かな山林資源を持つ地域でした。材木は城や寺社建築、都市整備などに欠かせない重要な資源です。

『多聞院日記』には、紀州の代官が材木の売上を着服したと受け取れる記述があり、秀長の関与を疑うような見方もできます。

ただ、これも秀長本人が直接関わったと断定できる話ではありません。

代官の横領だったのか、秀長の指示だったのか、あるいは豊臣政権内の財務処理をめぐる認識の違いだったのか。史料からは慎重に見る必要があります。

この事件は秀吉もかなりご立腹だったらしいです。

もしかしたら関与があったのかもしれません。

秀長の監督不行き届きだったのか、関与があったのかは本人しかわかりません。

戦国大名たちの財政事情

このように、秀長の周辺に「金の問題」が何度も出てくるのは確かです。

郡山城に残された莫大な金銀銭は、秀長個人の欲深さを示すものなのでしょうか?

ここで考えたいのが、戦国大名にとっての「財政事情」。

現代の感覚だと城に大量の金銀銭があったと聞くと、個人の貯金のように感じるかもしれません。

しかし、戦国大名の財産は、単なる私的な蓄えとは言い切れません。

大名家の財産は、軍事費であり、家臣への給与であり、城の維持費であり、外交費であり、寺社や公家への支出でもありました。

特に秀長は、豊臣政権の中でもかなり大きな役割を担っていました。

大和・紀伊・和泉などを支配し、四国攻めや九州攻めでは大軍を動かしています。大軍を動かすには、兵糧・馬・武具・人夫・輸送・褒賞など、膨大な費用がかかります。

さらに大和郡山城は、単なる秀長の住まいではありません。

大和支配の拠点であり、豊臣政権が畿内周辺を統制するうえで重要な城。そこに大量の財が蓄えられていたとしても、それは秀長個人の貯蓄だとは説明がつきません。

むしろ、豊臣政権の軍事・統治を支えるための財だった可能性は大いにあります。

もちろん、秀長が清廉潔白だったと断定することもできません。

寺社側から「ため込みすぎだ」と見られていたことから、郡山城に残された財の量は、当時の感覚でも多かったのかもしれません。

秀長の大和統治―寺社勢力の強い土地をどう治めたのか

大和国、現在の奈良県は、戦国大名にとって決して治めやすい土地ではありませんでした。

古代以来の都が置かれた土地であり、東大寺・興福寺・春日大社など、有力な寺社が強い影響力を持っていたのが大和国。

今の感覚だと、寺社というと「お寺」や「神社」を思い浮かべるかもしれません。

しかし、戦国時代の大寺社は、単なる宗教施設ではありませんでした。

広い所領を持ち、年貢を取り、場合によっては武装した人々も抱える政治的・経済的な勢力でもありました。

大和では、こうした寺社と結びついた衆徒・国民と呼ばれる武士層も存在しており、地域社会の中で大きな力を持っていました。

つまり、大和を治めるということは、寺社勢力、在地武士、旧来の土地支配、地域社会のしがらみが複雑に絡み合う土地を豊臣政権の支配秩序の中に組み込まなければならなかったのです。

秀長が大和郡山城に入ったのは、天正13年(1585年)のこと。

それ以前の大和では松永久秀や筒井順慶が織田信長のもとで大和支配を進めていました。しかし、筒井氏の時代を経ても、大和の寺社勢力や在地勢力がすべて消えたわけではありません。

そこへ、秀吉は弟の秀長を入れました。

これは、秀長が単に「秀吉の弟だからよい土地を与えられた」というだけではないと思います。豊臣政権にとって重要で、しかも統治の難しい大和を、もっとも信頼できる一門の実力者に任せたのだと考えます。

秀長は郡山城を大和支配の中心に据えました。

郡山城はもともと筒井順慶が整備を始めた城でしたが、秀長の時代に大きく作りかえられていきます。

秀長はこの城を拠点に、寺社勢力の強い大和を豊臣政権の支配下へ組み込んでいきました。さらに、大和国内の城や拠点にも家臣を配置し、郡山城を中心とした支配体制を築いていきます。

その中で避けて通れなかったのが、寺社勢力への統制でした。

大和の寺社は、長い歴史の中で多くの所領や権益を持っていました。秀長が大和を治めるには、それらを把握し、必要に応じて整理していく必要がありました。

検地や所領整理が進められれば、寺社側にとってはこれまでの既得権益を失うことになります。

大和の寺社社会の側から書かれた記録である『多聞院日記』に見える秀長への辛辣な評価も、こうした背景を考えると少し見え方が変わってきます。

そのため、秀長の政策によって権益を削られた側の不満や反発が、日記の内容ににじんでいたとしても不思議ではありません。

ただ、秀長は寺社勢力を徹底的に敵視したわけでもなく、春日大社の社殿造替に関わったように、必要な寺社には保護や支援(お金も捻出)も行っています。

・豊臣政権に従わない勢力は抑制

・政権の秩序の中に組み込める寺社は保護

このような硬軟を使い分けた統治だったのだと思います。

郡山城の石垣にも大和統治の特徴が表れています。

城の石垣には石仏や墓石、寺社に関わる石材が転用されたことで知られています。現在も「逆さ地蔵」と呼ばれる転用石が残っており、大和郡山城の特徴の一つになっています。

現代の感覚では石仏や墓石を城の石垣に使うことに驚くかもしれません。

しかし、当時の秀長にとっては、豊臣政権の拠点にふさわしい城を短期間で整えることが重要でした。石材の少ない大和で巨大な城郭を築くには、既存の石材を集める必要があったのでしょう。

ただ、寺社側から見れば、これは決して気持ちのよいことではなかったはず。

古くからの信仰や地域の記憶に関わる石が、豊臣の城に再利用されていく光景は、大和の古い秩序が、豊臣政権の新しい支配秩序に取り込まれていくことを象徴しているようにも見えます。

さらに、秀長は城下町の整備にも力を入れました。

郡山を大和支配の中心にするには、城だけ整備しても不十分です。

人が集まり、物資が動き、商業が発展し、税や流通を把握できる城下町が必要でした。城下町を整えることは、領国経営そのものでもあります。

大和という寺社勢力の強い土地で、秀長は城を整備し、寺社を統制し、所領を整理し、家臣を配置し、豊臣政権の支配が届く仕組みを作っていきました。

こう考えると、郡山城に残された莫大な金銀銭も、少し違って見えてきます。

秀長にとって財とは、単なる個人の貯金ではなく、領国を動かすための力でもあったはずです。

見る人によっては、金に執着した「守銭奴」に見える。しかし別の角度から見れば、寺社勢力の強い大和を豊臣政権の支配下に組み込むため、財を集め、管理し、軍事や領国支配に使うことのできた堅実な統治者だったともいえます。

豊臣秀長は、本当に守銭奴だったのか?

少なくとも「お金に無頓着な温厚な弟」ではなかったでしょう。

領国を管理し、資金を確保し、寺社勢力を統制し、大軍を動かす力を持っていた。そこには、かなり強い財政感覚が必要だったはずです。

一方で、支配される側から見れば、秀長は旧来の権益を奪い、金や土地を政権側に集めていく厳しい支配者でもありました。

同じ人物でも、見る立場によってまったく違った姿になります。

大河ドラマで描かれる小一郎は、兄を支える優しい弟としての面が強く出るかもしれません。しかし、戦国から天下統一へ向かう時代に、大和・紀伊・和泉を任されるということは、ただ人柄がよいだけでは務まりません。

寺社勢力、国衆、家臣団、豊臣政権の命令、軍事費、城下町の整備。

そうした複雑な事情を処理するには、強い統治能力と財政感覚が必要でした。

その意味では、「金に細かい」という性格は、秀長にとって欠点であると同時に、豊臣政権を支える武器でもあったのかもしれません。

派手な軍功や天下取りの物語の陰には、必ずこうした実務があります。

郡山城に残された莫大な金銀銭は、秀長の欲深さを示すものとしていわれますが、別の見方をすれば、それは豊臣政権の拡大を支えた財政基盤の一部だったともいえます。

秀長は「守銭奴」だったのか。

財を集め、管理し、軍事や領国支配に使うことのできた堅実な大名だったと見る方が、秀長の実像に近いのではないでしょうか。

その財政感覚が、見る人によっては堅実さに見え、また別の人からは強欲に見えた。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる若き小一郎の蓄財癖が、のちの大和郡山城の財宝へどうつながっていくのか。

最終回まで楽しみに見ていきたいところです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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