「天空の城」羽柴秀長が任された竹田城とは?播磨・但馬・生野銀山を結んだ重要拠点

兵庫県朝来市にある竹田城跡は雲海に浮かぶ姿から「天空の城」として知られています。
現在では多くの観光客が訪れる名所ですが、戦国時代の竹田城は景色を楽しむための場所ではなく軍事拠点です。
この城があった場所は但馬国南部で、播磨から但馬へ向かう位置にあり、山陰方面にもつながる地域です。さらに近くには、生野銀山もありました。
つまり、竹田城は軍事・交通・経済が重なる場所にあった重要な城だったのです。
そして、この竹田城は豊臣秀吉の弟である羽柴秀長とも関わりを持つことになります。
秀長は、一般的に兄・秀吉を支えた名補佐役として知られており、豊臣政権では大和大納言と呼ばれ、中枢に立つ人物となりました。
秀吉が織田信長の命を受けて中国地方攻略に向かうなかで、秀長は播磨の北にある但馬方面を任されます。
そのなかで重要な拠点となったのが竹田城でした。
そこで今回は秀長の出世や秀吉の中国攻めと結びつけながら、竹田城についても見ていきたいと思います。
竹田城はもともと山名氏・太田垣氏の城
竹田城は、但馬国南部に築かれた山城。
嘉吉年間(1441年〜1444年)ごろ、但馬守護の山名宗全が家臣の太田垣氏に命じて築かせたといわれています。
その後、竹田城は山名氏の重臣である太田垣氏が代々城主を務める城となります。
山名氏の支配時代から、この地域は重要な支配拠点でした。だからこそ、秀吉が播磨へ進出したとき、但馬と播磨を結ぶこの竹田城の存在は無視できないものになっていきます。
秀吉の播磨進出と北にある但馬の問題
天正5年(1577年)、羽柴秀吉は織田信長の命を受け、中国地方攻略のために播磨へ入りました。当時、織田家にとって西国の最大の相手は毛利氏で、秀吉はその毛利氏と向き合うために、播磨を前線として中国地方へ進んでいくことになります。
しかし、播磨を押さえただけでは、毛利氏と安心して向き合えたわけではありません。
播磨の北には但馬があります。
そこには山名氏や重臣・太田垣氏の勢力が残っていました。
秀吉が西へ進もうとするとき、北方の但馬が不安定なままであれば播磨の支配も安心できず、毛利方面へ兵を進めることも難しくなります。
秀吉軍が毛利氏と対峙するため西へ向かうには、播磨の北にある但馬をどう押さえるかが焦点です。こうして秀吉は播磨方面で足場を固めたのち、後顧の憂いを減らすために但馬方面へと兵を向けることとなります。
竹田城は播磨と但馬を結ぶ重要な拠点
竹田城があるのは、現在の兵庫県朝来市。当時の但馬国南部にあたります。南には播磨があり、北には但馬の中心部や山陰方面へつながっています。
つまり、竹田城は但馬の南側を押さえる重要な城でした。
秀吉が播磨に入ったあと、その北方にある但馬を安定させるには、竹田城のような拠点を確保することが重要です。
播磨から西へ向かうだけなら、北にある但馬は直接の進軍先ではないようにも見えます。
ですが、いくさは正面の敵だけを見ていればよいものではなく、周辺勢力の動向など常にアンテナを張り巡らせ、敵対勢力の対応をしなければ前線の維持が難しくなります。
播磨を安定させ西の毛利攻略を進めるためには、北方の但馬の安定も必要不可欠だったのです。
そういった事情から西へ進みたい秀吉にとって竹田城は「播磨の背後を押さえる」重要な拠点だったことになります。
『信長公記』に見える竹田城と木下小一郎
『信長公記』には秀吉が但馬国へ進み、山口岩洲の城を攻め落とし、さらに※小田垣氏がこもる竹田へ攻めかかったことが記されています。そして、竹田城には木下小一郎、つまり後の羽柴秀長が城代として置かれました。
※小田垣氏=太田垣氏だと考えられます。
一方で『武功夜話』には竹田城の戦いの具体的な様子が書かれていますが、この史料は史料的価値に疑問があるとも指摘されています。
こうして、秀長は城代として城を守るだけではなく、周辺の情勢を見ながら、軍事・補給・地域支配に関わる役割を担うことになります。
先述しましたが竹田城は、但馬南部を押さえる重要な城でした。
そこに秀長が置かれたことは、秀吉が弟を信頼していたことを示すだけでなく、秀長が現地支配を任される武将として歩み始めていたことも意味します。
秀長は「補佐役」だけではなかった
豊臣秀長は、よく「秀吉を支えた弟」「名補佐役」と言われることが多い人物です。
秀吉に信頼され、後の豊臣政権の安定に大きく関わった人物でした。そして、大和・紀伊・和泉などを治め、大和大納言と呼ばれた政権ナンバー2の存在になります。
竹田城に置かれた時期の秀長を見ると、すでに前線の一角を任される立場まで成長していました。但馬南部の重要拠点を任されるということは、戦場での働きだけではなく、地域を押さえる実務も求められます。
後に秀長は、紀州攻め、四国攻め、九州攻めなどでも存在感を示します。
そうした後年の姿を考えると竹田城時代は、秀長が軍事と地域支配を担う人物へ成長するための第一歩として歩みだした瞬間だったのかもしれません。
竹田城と生野銀山

竹田城を考えるうえで、もう一つ重要なのが生野銀山。
朝来市の竹田城跡公式ホームページの年表では、天文11年(1542年)に生野で銀の採鉱が本格化し、山名祐豊が支配したとされています。
戦国時代の大名にとって、鉱山は重要な財源でした。
兵を動かすには兵糧が必要です。武具を整えるにも、城を維持するにも、家臣団を抱えるにも資金が必要です。
銀山を押さえることは、軍事行動を継続するための経済基盤を押さえることでもありました。
竹田城は但馬南部の拠点で播磨と但馬を結ぶ重要な位置にあり、さらに生野銀山にも近い城でした。
つまり、軍事・交通・経済の要素が重なった重要な場所にあったのです。
秀吉方から見れば竹田城を押さえることは、但馬方面の軍事的安定だけでなく、銀山を含む経済基盤の確保や、地域支配にも関わる意味を持っていました。
竹田城をめぐる再争奪と但馬支配の決着
天正7年(1579年)5月、秀長は信長の命を受け、明智光秀を支援するため竹田城から丹波方面へ攻め入ったとされます。しかし、その後の秀長は竹田城へ戻らず、播磨方面へ引き上げたようです。
その隙をつくように、まもなく毛利方の太田垣輝延が竹田城に入城した、と伝わります。
つまり、竹田城は一度秀吉方の拠点となったものの、まだ流動的だったと考えられるのです。
そうした中で、翌天正8年(1580年)4月、再び信長の命を受けた秀長は兵を率いて但馬攻めを開始、竹田城や有子山城を降伏させました。
これにより、山名氏とその重臣である太田垣氏による但馬支配は終わりを迎えました。
天正5年の竹田城攻略、天正7年の情勢変化、そして天正8年の但馬攻めを経て、ようやく秀吉方による但馬支配が固まっていったと見ることができます。
その後は秀長を有子山城主に、桑山重晴を竹田城主にしたといわれています。
一方で秀長を『信長公記』の記述どおり竹田城代に任じたとする見方もあります。秀長は形式上は城代であっても、実質的には竹田城を拠点として但馬地域の統治や山陰方面の平定の責任者であったと考えられます。
竹田城は秀長のイメージが先行しているが…
現在の竹田城跡を訪れると、山上に広がる石垣が強い印象を残します。
竹田城は秀長ゆかりの城として紹介されることも多いため、現在残る石垣も秀長の時代のものだと思われがちです。
しかし、朝来市の公式ホームページでは、現在に残る石垣遺構は、赤松広秀が城主だったころに整備されたと説明されています。
竹田城は秀長のあと桑山重晴を経て、天正13年(1585年)に赤松広秀が入城しました。
竹田城跡の石垣には、大小さまざまな自然石を積み上げる野面積みの技法が見られ、近江の穴太衆と呼ばれる石工集団が関わったともいわれています。
※穴太衆については、下記の記事で取り上げているので参考にどうぞ。
つまり竹田城は、山名氏・太田垣氏の但馬支配を支えた城であり、秀吉・秀長の但馬攻略の拠点となり、その後は赤松広秀の時代に石垣の城として整備されていった場所でもあります。
関ヶ原の戦い後、最後の城主であった赤松広秀は、鳥取城攻めの際に城下町を放火した罪を問われ、自刃させられました。
その後、竹田城も廃城となり、石垣を残す城跡として現在に伝わっています。
竹田城代以降の秀長の躍進
秀吉が信長の命を受けて中国地方攻略を進めるなかで、秀長は但馬方面の拠点を任されました。
これは、秀長が単に兄の身内として従軍していたのではなく、実際に地域支配や軍事拠点の維持に関わる存在にまで成長していたことを示しています。
後の秀長は山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに関わり、さらに紀州攻め、四国攻め、九州攻めでも重要な役割を果たします。
その後、豊臣政権の中では、大和大納言として大きな存在感を示しました。
もちろん、竹田城代になったことだけで、秀長の後年の地位が決まったわけではありませんが、竹田城での役割は秀長が兄の補佐役から、軍事と地域支配を担う武将へ進んでいく過程の一つとして見ることができるのではないでしょうか。
「天空の城」の景色の奥にある戦国時代

現在の竹田城跡は、雲海に浮かぶ「天空の城」として知られています。
その姿は非常に美しく、観光地として人気があります。
※上記の写真を見てもらえるとわかるように絶景です。
しかし、戦国時代の竹田城は、絶景を見るための場所ではなく、但馬南部を押さえ、播磨との関係を持ち、生野銀山にも近い重要な城でした。
秀吉が中国地方へ進むにあたって、播磨の北にある但馬を安定させることは重要な課題でした。そのなかで、竹田城に秀長が置かれたのです。
この城代時代の経験を経て秀長は、兄・秀吉を支えるだけでなく、実際に城と地域を任される武将になっていきました。
現在、竹田城跡を訪れる人の多くは、雲海や石垣の美しさに目を向けます。
そこに加えて、戦国時代の竹田城が置かれた地理的な意味や、秀吉の中国攻め、そして秀長の役割を知ると、この城跡はまた違った姿で見えてくると思います。
そこには但馬支配をめぐる戦国時代の動きと、後に豊臣政権を支える秀長の成長過程もうかがえるかもしれません。
