スペイン領ラテンアメリカはなぜ独立したのか?
19世紀初め、現在のメキシコや南アメリカの広い地域は、スペインの植民地として統治されていました。
ところが、1810年代から各地で独立運動が広がり、1820年代半ばまでにスペインはアメリカ大陸の植民地の大部分を失うことになります。
では、なぜ長年スペインの支配下にあった地域で独立運動が広がったのでしょうか。
その背景には、植民地社会の不満に加え、ナポレオンの介入によって生じたスペイン本国の政治的混乱がありました。
今回は、スペイン領アメリカで独立運動が始まった背景から、各地の独立国家成立までの流れを見ていきましょう。
スペイン領アメリカの植民地社会と独立の背景
当時のスペイン領アメリカは、ヌエバ・エスパーニャ、ヌエバ・グラナダ、ペルー、ラプラタの4つの副王領などに分けられ、スペイン国王のもとで統治されていました。

※4つの副王領のおおよその位置を示した概略図。色分けは実際の行政区域や支配範囲を厳密に示したものではありません。(Natural Earthの地理データを参考にAIで作成
植民地社会では、スペイン本国出身者をペニンスラール、アメリカ大陸で生まれたスペイン系住民をクリオーリョと呼びました。
クリオーリョには大土地所有者や商人など、豊かな経済力を持つ人々もいました。しかし、高位官職には本国出身者が優先的に登用される傾向があり、政治的な待遇に不満を持つ人々もいました。
さらに、18世紀のブルボン改革によって、スペイン政府は植民地への行政統制や徴税を強化します。貿易制度の改革によって経済活動が活発になる一方、従来の権限や利益を制限された現地の有力者たちからは反発も生まれました。
また、植民地には先住民やメスティーソ、アフリカ系住民なども暮らしており、それぞれの社会的な立場や利害は異なっていました。クリオーリョ自身も特権的な立場にあり、全員が独立を望んでいたわけではありません。
メスティーソは、スペイン語で「混ざりあったもの」を意味する言葉。
植民地時代のラテンアメリカでは、主にヨーロッパ系と先住民の混血の人々を指しました。現代では、文化的な混合や多様性を表す意味でも使われています。
こうしたなか、アメリカ独立革命やフランス革命を通じて、自由や政治的権利に関する思想も広がっていきます。
ただし、本国への不満がそのまま独立要求につながったわけではありません。状況が大きく変化するのは、1808年にスペイン本国で王政の危機が起きてからのことでした。
ナポレオンの介入と各地の自治運動(1808~1814年)
1808年、ナポレオンがスペインの王位継承問題に介入し、国王フェルナンド7世らを退位させ、自らの兄ジョゼフをスペイン国王に即位させました。
これに対してスペイン各地では反乱が起こり、ナポレオンへの抵抗が始まります。しかし、正統な国王が不在となったことで、アメリカの植民地でも「国王が統治できない間、誰が政治を行うのか?」という大きな問題が生じます。
スペイン本国では戦争が続き、中央政府の権威も不安定になるなか、1810年前後からベネズエラやブエノスアイレス、チリなどで、現地の有力者たちを中心に自治評議会(フンタ)が設立されていきます。こうした自治評議会の多くは、フェルナンド7世への忠誠を維持しながら、本国政府とは別に現地で政治を行おうとしていました。
一方、スペイン本国では1810年にカディス議会が開かれ、1812年にはカディス憲法が制定されます。この議会にはアメリカ側からも代表が参加しましたが、本国側との代表数には格差があり、政治的な権利や自治をめぐる対立は解消されませんでした。
自治運動が広がるなか、一部の地域ではスペインからの独立を目指す勢力が主導権を握るようになります。一方、スペイン王権への忠誠を維持する勢力も根強く、各地で政治的な対立が生じていました。
1814年、フェルナンド7世が復位すると、カディス憲法を廃止して絶対王政を復活させました。さらにアメリカの植民地でも王権の回復を図ったため、独立派との対立が激しくなっていきます。
シモン=ボリバルとサン=マルティンによる南アメリカの独立
スペイン領アメリカで自治運動が広がるなか、1811年にはベネズエラで独立が宣言されました。しかし、各地にはスペイン王権を支持する王党派も存在し、独立派との戦いが続きます。
ボリバルと南アメリカ北部の独立
南アメリカ北部で独立運動を進めたのが、ベネズエラ出身のシモン=ボリバルでした。
ボリバルは一時的に敗北して亡命するなど苦戦しましたが、1819年には現在のコロンビアにあたる地域で勝利を収め、ベネズエラやヌエバ・グラナダを中心とする大コロンビアの成立を進めます。その後も独立派は勢力を広げ、現在のエクアドルにあたる地域も大コロンビアに加わりました。
サン=マルティンの遠征とペルーの独立
南アメリカ南部では、現在のアルゼンチンにあたるラプラタ地方で自治運動が進み、1816年に独立が宣言されます。
この地域を拠点に独立運動を進めたのが、サン=マルティンでした。彼はアンデス山脈を越えてチリへ進み、ベルナルド=オイギンスらと協力してスペイン王党派と戦います。1818年にはチリの独立が宣言されました。
さらにサン=マルティンは、スペイン王党派の重要拠点だったペルーへ進み、1821年にリマで独立を宣言しました。しかし、ペルー内陸部には王党派の勢力が残っていました。

その後、ペルーではボリバルらが独立戦争を進め、1824年のアヤクーチョの戦いで、アントニオ=ホセ=デ=スクレ率いる独立派が王党派の主力に勝利しました。
これによってスペインの南アメリカ大陸における支配は大きく後退し、1825年には現在のボリビアも独立します。

シモン=ボリバル
南アメリカ北部を中心に活動
<主な関係地域>
ベネズエラ・コロンビア・エクアドル・ペルー・ボリビア

サン=マルティン
南アメリカ南部からペルーへ活動
<主な関係地域>
アルゼンチン・チリ・ペルー
※現在の国名で表記。独立運動への関与の程度は地域によって異なります。
メキシコ・中央アメリカの独立
南アメリカで独立運動が広がる一方、メキシコでも1810年、司祭のイダルゴがスペインの植民地支配に対して蜂起しました。
この反乱には先住民やメスティーソ、農民などが参加しましたが、民衆反乱を警戒したクリオーリョの有力者たちのなかには、スペイン王党派を支持する人々もいました。
その後、イダルゴらの反乱は鎮圧されましたが、独立派の抵抗は続きました。
転機となったのが、1820年のスペイン立憲革命です。
フェルナンド7世がカディス憲法の復活を認めると、メキシコでは本国の自由主義的な改革を警戒し、独立を支持する有力者も現れます。
その代表が、かつて王党派として独立運動と戦っていたイトゥルビデでした。
イトゥルビデは従来の独立派と協力し、1821年に独立、カトリックの維持、住民の結束を掲げたイグアラ綱領を発表。同年、メキシコはスペインから独立します。
また、中央アメリカでも1821年にスペインからの独立が宣言され、一時はメキシコ帝国に編入されましたが、1823年には分離して独自の国家形成へ進んでいきました。
独立後のラテンアメリカとスペインへの影響
こうして、1820年代半ばまでにスペイン領アメリカの大部分が独立し、各地に新しい国家が成立した一方、キューバやプエルトリコなどは引き続きスペイン領として残されます。
独立した国々では新しい政治体制の整備が進められましたが、地域間の対立や権力争いは続きました。また、クリオーリョを中心とした社会構造が残り、先住民やアフリカ系住民などの社会的な不平等もすぐには解消されませんでした。
この一連の独立の動きを受けて、1823年にはアメリカ合衆国の大統領モンローが、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への新たな植民地化や干渉に反対するモンロー宣言を発表します。また、イギリスも新たに独立した国々との貿易拡大に関心を寄せていました。
スペインは広大なアメリカ大陸の植民地の大部分を失い、長く続いたスペイン帝国のあり方も大きく変わることになりました。


