ハル・ノートとは?――なぜ「最後通牒」と受け止められたのか
ハル・ノート(Hull Note)は、1941年11月26日(ワシントン時間)に、米国務長官コーデル・ハルが日本側の野村吉三郎大使へ手交した対日交渉文書です。
正式な題名は「日米間協定の基礎案概略」で、文頭には “Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment(極秘・暫定・拘束力なし)” と明記されています。
とはいえ、内容は日本側に大幅な政策転換を求めるもの。当時の日本側としては受け入れがたい条件提示と受け止められ、「事実上の最後通牒」とみなされました。結果として開戦決定を加速させた要素のひとつになっています。
ハル・ノートには何が書かれていたのか
ハル・ノートの中身は、大きく分けると二つの層に分かれています。
一つは、日米が共有すべきとされた「基本原則」です。これは政治や経済の面で、どのような国際秩序を目指すのかを示したもので、いわば政策に関する相互宣言案にあたります。
このハル・ノートの前半で示された政治・経済の基本原則は、米国が1930年代以降の対日外交で繰り返し主張してきた考え方を整理したもので、後にハル四原則と呼ばれることがあります。内容的には以下の通りです。
- 領土主権・領土保全の尊重
- 内政不干渉
- 機会均等(通商上の非差別)
- 国際協調による平和的手段での紛争解決
これらはハル・ノート独自の新条件というより、交渉を進めるうえでの前提を改めて明文化した部分と捉えるのが実態に近いでしょう。
もう一つは、その原則を前提に、日米双方が具体的に取るべき行動を示した部分です。史料では「合衆国政府および日本政府の取るべき措置」とされており、撤兵や通商措置など、現実的な要求が並んでいました。
- 中国および仏領インドシナからの撤兵
陸海空・警察力まで撤退対象に含めて明記 - 中国で支援する政権の限定
重慶の国民政府以外の政権・体制を支援しない
(日本が支持していた汪兆銘政権の否認) - 日米の凍結措置の解除
資産凍結を相互に解除 - 通商協定・為替安定化
日米通商協定交渉、ドル=円レート安定化の枠組み など
つまりハル・ノートは、「妥結するなら、撤兵と原則合意を前提に、通商・金融面も含めて組み直す」という包括案でした。
ざっくり言うと「中国・仏印から撤兵し、対中政策を“戦争前提”から外して交渉し直そう」という内容です。日本側からしたら時間もお金も人命もかけてきた満州事変以降の対中政策を大きく崩す要求に見えました。
だからこそ「最後通牒」に近い文書として受け止められたわけですね。
なぜこの時期にハル・ノートが出てきたのか?
1937年に始まった日中戦争が長期化するにつれて、米国にとって中国問題は「対日外交の中心争点」として扱われるようになりました。
たとえば1937年には中国の揚子江で米艦(パナイ号)が攻撃され沈没する事件が起き、米国側の対日不信を強めています。さらに占領地では、在華米国人の行動や米企業の活動が制限され、通商上の機会が狭まる問題も積み重なります。米国はこうした事態を「条約上の権利の侵害」として問題視しました。
その結果、米国にとって中国問題は、単なる“第三国の問題”ではなく、対日交渉の優先度が高い争点になっていきます。
1941年秋の日米交渉では「中国からの撤兵」や、武力によって現状を変更する行動をどう扱うか(不侵略・主権尊重など)をめぐって、折り合いがつきにくい状態が続いていきます。
日本側は11月中旬から下旬にかけて、当面の緊張緩和を目的とした「暫定的な措置(モダス・ヴィヴェンディ)」も視野に入れて打開策を探ります。
しかし米国側は、暫定案では対中方針や不侵略原則との整合が十分に取れないとみて、交渉全体を整理した包括案として、1941年11月26日にハル・ノートを提示しました。
ハル・ノートを受け取った後の日本の対応
ハル・ノートを受け取った日本政府は、内容を検討したうえで、提示された条件をそのまま受け入れるのは困難だと判断します。
表向きは交渉継続の形をとりつつも、政府中枢では「交渉での打開は難しい」という見方が強まり、開戦を含む選択肢が現実的なものとして扱われるようになりました。
こうして日米交渉は事実上の最終局面に入り、12月の開戦決定へと進んでいったのです。
※交渉経過の時系列は、別記事で整理しています。

