戦国時代のある技術が大塩平八郎の乱に繋がった??
古今東西、戦争によって技術が発展することはよく言われています。
インターネットにデジタルカメラ、携行保存食、電子レンジに航空産業、果ては鉛筆まで様々です。
それは日本においても例外ではありません。戦国時代に培われた技術が江戸時代に形を変えて普及するようになったことが巡り巡って幕府の財政を圧迫させることに。
今回は、そんな戦国時代に培われた技術に着目して江戸時代がどう変わっていったのかを見ていきたいと思います。
江戸時代初めに普及した戦国時代の技術とは?
戦国時代、軍事力を支える軍資金や武器の原材料を確保するための鉱山開発に各大名は力を入れていました。この鉱山開発の技術を転用するとで治水や用水路の開発が飛躍的に進みます。
日本ではかなり昔から地理的要因により夏~秋にかけて多くの台風が来ます。当時は台風時期になると下流域では川の氾濫がかなりの頻度で起こっていたようです。
そのため、中世以前は下流域で稲作をする事はなかったのですが、江戸時代のインフラ整備(治水・用水路の確保)によって河川下流域、平野部での新田開発が可能になりました。
新田開発がもたらしたこと
当然、耕地面積が広がります。更に備中鍬などの農具が普及したことを受け、耕地面積が17世紀初めに163万町歩だったのに対し、100年後には297万町歩…二倍近くまで拡大しています。もちろん、耕地面積拡大は米の収穫量が増えることに繋がり米価安を促します。
また、新たな土地の使い方ができたことで商品作物が発展。手工業生産も普及したことで農村でも貨幣経済が浸透していきます。
農業が多角化・集約化され、経営が安定したことで大家族が単婚小家族へと…つまりは小規模の農業を行いながら独立する家族が増えました。農民たちは飢饉の怖さを知っていたので余剰に作物を保存する場合が多かったのですが、貨幣経済の浸透で米価が高いうちに貨幣に変えようと手放すケースも増えました。気が付かないうちに飢饉が発生しやすい状況を招いていたのです。
鉱山資源の枯渇
江戸時代初期は幕府も戦国時代の名残で鉱山資源を多く獲得していたことで、資源は豊富にありました。最盛期に400㎏の金と40トン以上の銀を採掘した佐渡金山などの鉱山を直轄領としたためです。ですが資源はいつまでもあるものではありません。江戸時代中期には産出量が衰え始めます。
1730年時点で幕府の歳入における年貢の占める割合は約64%。それが1843年には約39%にまで落ち込んでいます。年貢の量自体はほぼ変化していない(それどころか増えている)にも拘らずその割合が減っているのは、米価の値下がりが影響しているのでしょう。一方の歳出は当然商工業が発展したことによる物価の値上がりで増加。商人からの借金と貨幣の改鋳した差益などで財政難を凌いでいきます。
貨幣経済の発展と農村の変容
貨幣経済の浸透と資源の産出量の衰えなどが重なり幕府が徐々にジリ貧になっていったことで、幕府では改革を余儀なくされます。八代将軍・徳川吉宗による、いわゆる江戸時代の三大改革のうちの『享保の改革(1716年~)』が始まりました。
この時の年貢増徴策が農村部での貧富の差を決定づけました。貧農層が手放した土地を豪農層が買い取っていくこと(本来は禁止されていたが土地を質入れ⇒質流れの経緯で手放すことが可能だったため、その法の抜け道を利用)で地主制が成立していきます。
豪農層は奉公人を雇いながら直接農業経営を行い、蓄積した富で商業分野へ進出した者も。一方の小作に転落していった貧農は、江戸や大坂などの都市に下層民として流入していったと言われています。
百姓一揆の変化
以上の流れから農村では大きく社会変化が起き、それと共に百姓一揆のあり方も変化しました。
- 代表越訴型:17世紀に多かった名主などの村の代表者が領主や代官に訴える一揆
- 惣百姓一揆:年貢増徴などに反対して全農民が放棄する一揆
- 全藩一揆:藩領全域に及ぶ一揆
と呼んでいます。
この辺りまでは「年貢の取り立て」に関する要望なので回数もある程度に留まりました。そこから少し違う様相を呈してきたのが『村方騒動(村役人や豪農の不正を追及する)』です。
村内での利害が不一致していることの表れつまりは農民の階層化の影響と言えます。年貢以外の要求のため回数も増加することになるのです。
そんな世相の中で18世紀後半には天明の大飢饉や震災、浅間山の噴火といった自然災害が続きます。さらに田沼意次の重商政策による弊害から賄賂が多発するなど庶民の不満が高まっている状況です。次第に物価上昇の影響を受けやすい下層民による暴動的性格が強まった世直しを目的とした一揆や打ちこわしが増えていきました。
天保の大飢饉の発生
大雨・洪水・冷夏が重なり、1833年から1839年まで全国的な大飢饉が起こります。農村部では貧農層が、都市部でも下層民が餓死する事態に。当然百姓一揆や打ち壊しは増加します。特に大坂では毎日150~200人もの餓死者が出たようです。この餓死者の中には当然農村部から流入した貧農層の者たちが多くいます。
この惨状に、幕府の元役人で陽明学者の大塩平八郎が動きました。
奉行所に民衆の救済を提言するも断られ自身の蔵書を売って乗り切ろうとしますが、肝心の幕府と豪商が大坂の米を江戸へと回送しようとしたのを目の当たりにして反乱を決意。武器を手に入れ、門下生らと共に1837年に決起します。
※なお、当時の大坂奉行所の責任者は老中・水野忠邦(天保の改革の中心人物)の実弟です。
結局わずか半日で鎮圧されてしまいましたが元幕臣が反乱を起こした影響は大きく、 国学者の生田万が大塩門弟と称して陣屋を襲撃した生田万の乱や大塩の考えに共鳴した百姓一揆が各地で起こったそうです。
大坂だけでなく江戸でも打ちこわしが頻発し、次第に不穏な時代に突入していくことになります。江戸時代の国内の様子はそんな感じです。
この後、外国から船舶が来航して外圧に屈することになりますが、外圧だけで倒幕の流れになった訳ではなく、正に『内憂外患』を地でいったために明治維新に至っていったのです。