戦後の経済復興から高度経済成長の生活の変化
朝鮮戦争の特需により復興を遂げた日本経済は、その後、世界に例を見ない高度経済成長期に入っていきました。1955年~1973年まで、日本の実質経済成長率は年平均で10%を超えて、欧米諸国の2倍~4倍の数字になりました。
景気の名称
好景気・不況の名称をその時々でマスコミが名称を付けていました。
- 1950年~1953年…朝鮮戦争特需景気
- 1955年~1957年…神武景気(31か月)
- 1958年~ …なべ底不況
- 1958年~1961年…岩戸景気
- 1962年~1964年…東京オリンピック景気(24か月)
- 1965年~ …昭和40年不況
- 1965年~1970年…いざなぎ景気(57か月)
- 1973年 …第一次オイルショック
- 1985年 …円高不況(秋に急激な円高で一時不況に)
- 1986年~1990年…平成景気またはバブル景気
- 1997年~ …バブル崩壊からの平成不況
1955年の神武景気は、初代天皇・神武天皇以来の景気の良さと言われたことからこの名がつけられ、1958年以降の好景気は、神武天皇より前の名前が付けられないかと言う事で、日本神話の【天の岩戸】のエピソードより名前が付けられたようです。
天の岩戸のエピソードとは、太陽の女神さまが弟・荒ぶる神のやらかしを恐れて洞窟のような場所に引きこもったために世界が暗闇に包まれたというものです。
さらに、1965年のいざなぎ景気は、岩戸景気より続いたので、天の岩戸よりさらにさかのぼった【いざなぎのみこと】から名前をもらったそうです。
このイザナギノミコトは、先程触れた洞窟に篭ってしまった神様…
天照大神の父神で、天照大神はイザナギの左目から生まれたと言われています。また、神武天皇の7代先祖とも言われているようです。
各景気の特徴
神武景気期の1965年の経済白書では、【もはや戦後ではない】と言うキャッチフレーズが度々使われるようになるくらいの好景気で、国民1人当たりの消費高が1953年の戦前の水準を超えてます。
岩戸景気の頃は、せんい・機械の輸出が好調で、工場建設などの企業の設備投資が盛んにおこなわれました。こうした状況に、【投資が投資を呼ぶ】と1960年の経済白書で表現されています。
また、石油産業では外国から新しい技術を取り入れ、技術革新を行い、太平洋沿岸の各地に鉄鋼・石油化学などの臨海工業地帯を作りました。そこにも、コンビナートも作られ関連産業を含めた【集積の利益】の追求がされました。
所得倍増計画
1960年に、池田勇人内閣が【所得倍増計画】を発表します。
池田内閣の下で策定された長期経済計画の事で、1961年からの10年間で実質国民総生産を倍増させることを目標に掲げられましたが、日本経済は予想以上に発展を遂げ、目標を大きく上回る事になりました。
国民の所得も増え、この時期に三種の神器が消費ブームを起こし、内需を拡大させて景気を引っ張っていきました。
白黒テレビの普及により、テレビCMが人の消費欲を掻き立てました。
冷蔵庫が登場すると、家で飲んでいた生あたたかいビールやジュースを冷やすと美味しいことが分かり、冷蔵庫の普及とともにビールや清涼飲料水が爆発的に売れました。洗濯機や電気釜が家庭にあることで、家事かける時間が飛躍的に短くなり女性の社会進出が進むようになりました。
前半期は内需に依存した設備投資型の経済成長だったので、好景気になり原材料の輸入が増え、国際収支が悪化し外貨不足のため日銀が引き締めを行い、景気が落ち込むと言った具合の繰り返しでしたが、トータル的にはめまぐるしい発展をしていきます。
1965年からのいざなぎ景気の特徴は輸出主導型の経済成長で、設備投資の進んだ重化学工業分野で国際競争力が強化され、鉄鋼・電気製品の輸出が増大したことにより、国際収支の天井が解消されました。
経常収支は常に黒字となり、政府も国債を発行し公共投資の拡大を図り、このいざなぎ景気は57か月と言う戦後最大の景気となりました。
その好景気の中で、【マイカー・カラーテレビ・クーラー】の3Cブームが国民生活で起き、普及してきました。
そして、1968年に日本は、GNPが自由主義経済国内でアメリカに次いで第2位となります。その四年前には、だれもが海外旅行に行けるようになり、当時大卒の初任給が2万円だった時代に、ヨーロッパ17日間で70万円、ハワイが36万円でした。
高度経済成長の背景
経済成長はある条件が揃うと飛躍的に上昇する傾向にあります。
その条件には、付加価値生産力に関わる十分な資源、それを消費する需要、それを形にする技術革新や豊富な労働力などがあります。これらの条件が相まって戦後日本の高度経済成長の要因となったのです。
豊富な労働力
日本の高度成長期といえば1954年から1970年。戦後は働き盛りの海外からの引き上げ組が、1962年辺り以降は第一次ベビーブームで育った世代が労働力として社会を担うようになります。
そんな中、農村部から都市部へ移動する人々が増える傾向が生まれ始めます。
都市部で工業化が進んで労働力が必要になったこと(賃金は都市部>農村部)、乳児死亡率が一気に減り一家庭に約4人の働き世代が育って働く場所が少なくなったことも農村部から都市部へ人口が移動した理由と考えられます。この傾向は、勤勉な労働力が比較的安い賃金で雇えることに繋がり日本の経済成長に貢献しました。
さらに終身雇用・年功序列賃金などの労働条件にも支えられ、民間企業で協調的な労使関係が形成されていきます。
技術革新と設備投資
高度経済成長の初期では、賃金コストが小さく利益が大きかったので、これを設備の改善や拡大に投資していました。各企業がこぞって技術を導入し技術革新に一役買いまいた。
その結果、生産性が大きく向上し大量生産が行われることになりました。
日本の貯蓄率
日本は貯蓄率が高く、その集められた預金が銀行を通して企業の資金に回され、設備投資の資金に充てられました。豊富な資金が間接的に企業へ供給されました。
国際経済情勢
経済成長を大きく支えたエネルギー分野の原油や多くの鉱山資源を安く容易に手に入れることができ、1ドル=360円の固定相場が輸出を増大させました。
国内市場の拡大
国民の所得水準が上昇し、家電製品や自動車などを中心に国内市場が拡大しました。まさに正のループですね。
政府の産業保護・助成政策
政府が道路・鉄道・湾港の生産関連会社資本を整備したり、税制上の企業優遇措置を行いました。
高度経済成長がもたらしたもの
都市部の人口集中により、過疎・過密の問題がおこり工場乱立による公害問題が発生しました。1964年の東京オリンピックの開会式では天気は快晴だったのですが、工場の排出ガスにより、空がグレーに染まっていたとも言われています。
公害問題に伴い、1967年に四大公害の裁判が開始され、公害対策基本法も制定され、1971年には環境省が設置されることになります。
人口の増加により大都市での住宅事情が悪化し、交通渋滞・騒音・ごみ問題などの生活環境の悪化が問題となりました。
産業構造の高度化
第一次産業の比率が低下し、第二次産業、第三次産業に比重が移っていきました。
また、第二次産業の中でも軽工業から重化学工業に比重が移り、第三次産業も拡大し経済のソフト化・サービス化が進みました。
生活スタイルの変化
高度経済成長は、サラリーマンを増加させ、女性の社会進出も盛んになりました。
大消費時代が来ると人々の価値観が変わり、物やお金へのこだわりが強くなりました。
安定成長による高度経済成長の終焉
1973年に石油危機(オイルショック)が発生し、日本経済が混乱しました。
アラブ石油輸出機構【OAPEC(オペック)】が対立するイスラエルを支援する、アメリカや日本に対して、原油の輸出を減らしたり、原油価格を上げる石油戦略を実施し、原油価格が世界的に高騰しました。
この石油戦略により原油の輸入価格が4倍に跳ね上がり、日本の国際収支が赤字となりました。インフレが進行していた所の原油高騰で、狂乱物価と呼ばれるほどの価格が上がっていきました。
そこで政府は、総需要抑制政策をいましした。
- 公共事業の削減などの財政支出の抑制
- 公定歩合の引き上げ ( 1973年には最高最高水準の9%まで )
その結果、狂乱物価は収まり、1974年~1980年代前半まで、3%~5%くらいまでの安定した経済成長をすることになります。
1979年にイラン革命による原油輸出中断が原因の第二次石油危機が起こります。
1978年~1980年にかけて原油価格が2.4倍に上昇しました。世界各国では、失業率が10%を超える経済危機に直面していましたが、省資源化の進んでいた日本では、比較的短期間でその危機を乗り越えました。
1970年代の石油危機は、高度経済成長から低成長に移行させ、省エネ・省資源を促進させ、企業は経営の合理化を務めることになります。