豊臣政権のほころび「秀次切腹事件」の余波 わずか14歳で処刑された駒姫

戦国時代も末期にさしかかった16世紀末、出羽国(今の山形県)に「東国一の美姫」と称された少女がいました。
彼女の名は駒姫(こまひめ)。
戦国大名・最上義光の娘として生まれ、聡明で教養に優れた姫として将来を期待されていました。しかし、時の権力者である豊臣秀吉の甥・豊臣秀次との縁談がすべての運命を変えることとなります。
結果、駒姫は婚姻前でありながら罪人とされ、わずか14歳で処刑されました。
なぜ、駒姫は処刑されねばならなかったのか。そして、その事件が豊臣政権にもたらした影響を駒姫の最期を起点に秀次切腹事件の余波を振り返ります。
最上家に生まれた東国一の姫
駒姫は1581年ごろ、出羽国を治める最上義光とその正室・大崎殿の間に生まれました。母の出身地近くには「御駒山」という地名があり「この山のように美しく育つように」と願って駒姫と名付けられたと伝えられています。
義光夫妻は駒姫を非常に可愛がり、特に教養面での教育には熱心でした。礼儀作法や和歌、仏教の教えに加え、琵琶の演奏にも長けていたとされます。
その将来は、誰が見ても明るいものに思えました。
豊臣秀次との縁談、そして急転
1591年、東北地方で起きた一揆や反乱の鎮圧にあたり、豊臣秀吉は甥の秀次を総大将として派遣した。このとき、秀次のもとに「最上義光の娘が東国一の美しさを誇っている」という話が届きます。
政略的な側面もあったのだろう、秀次は駒姫を側室に迎えたいと義光に申し出ます。しかし、当時駒姫はまだ11歳。義光は一度は辞退するも、再三の要請に抗しきれず、「14歳になったら差し出す」ことを条件に受け入れることになりました。
義光と大崎殿はその3年間、娘のために精一杯の準備をしました。やがて期日が訪れ、駒姫は京都へと送り出され、側室としての暮らしが始まるはずでした。
だが、そこに待っていたのは幸福とは程遠い運命だったのです。
豊臣秀頼誕生が招いた!?秀次切腹事件
駒姫が上洛した翌年、秀吉と側室・淀殿の間に男子・秀頼が誕生する。これによって、すでに関白職を譲られていた秀次の立場は急速に不安定になります。
秀吉は後継者を実子に切り替えるため、秀次に謀反の嫌疑をかけます。秀次は高野山に追放されたのち切腹。そして、その関係者にも容赦のない処罰が下されることに…
対象は秀次の家族や近臣だけでなく、まだ婚姻すらしていなかった駒姫にまで及びました。
駒姫、三条河原に引き出される
駒姫は京に到着したばかりで、秀次と会ったことすらなかったが、「側室になる予定だった」という理由だけで連座。秀次の一族らとともに、三条河原へと連行されます。
父・最上義光は娘の命を救おうと動き、母・大崎殿も懸命に助命を求めて奔走した。秀吉の側室である淀殿もこれに同情し、助命を秀吉に進言し、秀吉も了承しました。
しかし、処刑場にその報が届いたのはわずかに遅く、駒姫の刑はすでに執行されたあとだったのです。
辞世の句を残し、西に向かって静かに合掌したと伝えられています。
処刑の波紋――政権内に走る不安と不信
駒姫のように無関係に近い者までもが処刑されたこの事件は、政権のあり方そのものに疑問を抱かせるものです。
家臣の間には「次は我が身かもしれない」という不安が広がります。
また、最上義光もこの事件を機に、豊臣政権への信頼を大きく失ったと考えられる。
関ヶ原へ――義光の決断と豊臣家の衰退
1600年、関ヶ原の戦いが勃発。最上家は徳川方に加担し、東北では上杉軍と戦う「出羽合戦」が展開されました。義光は長谷堂城で防衛を成功させ、伊達政宗とともに上杉軍を撃退。戦後、徳川家から功績を認められ、57万石の大名として出羽を治める立場にまで登ります。
一方、豊臣家は関ヶ原に勝利した徳川家康によって政治的主導権を奪われ、やがて大阪の陣で滅亡することになります。
豊臣政権によって運命を左右された少女の人生は、政権の転換点、そして滅亡の前兆事件の裏話として後世に語り継がれてきた。
現在、山形市には駒姫を供養する寺や史跡が残っており、その短い生涯を偲ぶ人は今も絶えない。駒姫の悲劇が現代に問いかけるのは、「為政者の判断が、どれほどの人々の人生を変えてしまうのか」という重い現実でもあります。
この記事はYahoo!ニュースエキスパートに掲載しているものをブログ用に加筆したものです。