歴史コラム

徳川家康や織田信長も大好き!【鷹狩り】は、軍事訓練だった!?

歴ブロ

接待】と言うのは、何も現代のサラリーマンに始まった事ではありません。

戦国時代の家臣だろうが、サラリーマンだろうが上層部と共に行動しなければいけなかったのは同じで、いつも彼らに振り回されていました。そんな苦行である接待にいやでも同行するのは、自分の出世に影響があるからです。

 

そんな戦国時代の接待と言えば【鷹狩り】で、徳川家康の重臣【本多正信】は、元は鷹を飼って育てている【鷹匠】だったと言います。この時代、戦の訓練にもなる鷹狩は、家臣達からすれば、用意周到に準備を整え君主に有能さをアピールする絶好の場だと言えます。

 

武将に愛された鷹狩りとは?

鷹狩りとは、鷹を狩るのではなく、【鷹を使って獲物を狩る】のが正解です。

その始まりは、仁徳天皇の頃で宮廷行事にもなっていたそうです。平安時代の貴族の世になってからは下火になっていましたが、武士が台頭すると再びブームに火が付きました。その後は、鎌倉、室町・戦国時代へと続いていくことになります。

特に、戦国時代では徳川家康と織田信長が、鷹狩りと大好きだったようです。

 

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鷹狩りの手順

まずは、獲物探しから。獲物となるのは、鶴や白鳥、雉などの野鳥やウサギなどの小動物も獲物となりました。

これらの獲物を勢子と呼ばれる人が見つけて追い立てていきます。

こうして発見され、追い詰められた獲物は次の行動を起こします。走り出すか、飛び立つかです。そこへ鷹を放ち狙った獲物を捕獲させるのです。このことから、武将一人が鷹と戯れて悠々自適に狩りを楽しむ感じではないのです。実際は、たくさんの人がお供する事になります。

 

また、鷹狩りに欠かせないのが【鷹匠】の存在です。

鷹匠とは、鷹を訓練し調教して捕獲能力の高い鷹へと育てるブリーダーみたいな専門家です。野生の鷹を鷹狩り仕様に育てるのは長い年月がかかるのだそうです。

 

鷹狩りのメリット

手順を見る限り、娯楽要素が大きいそうな鷹狩りですが、その他にも色々なメリットがあります。

戦の訓練

まずは、なんといっても戦の訓練になるのが大きいでしょう。これがあるから、武士のたしなみとして行われていたと思われます。

鷹狩りは、いわば軍事演習の一環として、それぞれの持ち場、役割、手順などを確認する事が出来ました。ところが戦が少なくなった江戸時代でも鷹狩りは重宝されたのですが、戦国時代とはその目的が変わっていくのでした。

スポーツとしての鷹狩り

その目的と言うのが、スポーツとして鷹狩りがすぐれていたようです。

5代将軍・綱吉の時代に一度は禁止になりますが、8代将軍・吉宗の時代に復活したのもこのような理由があったとされています。

鷹狩を行うには、まずは獲物がいるような場所へ行かなくてはいけません。当然、江戸のような街中ではありません。そのような場所へ、交通機関の発達していない時代ですから、当然自分の足で行かなくてはいけません。

また、獲物を探して野山を駆け巡るため、足腰が鍛えられるのは当然で、健康マニアだった徳川家康は晩年、健康維持のために鷹狩りを頻繁に行っていたそうです。

領地の把握

鷹狩のもう一つのメリットは、自分の領地の状況が把握できる点がありました。

これは、領地を治める大名にとっては大きなメリットともいえよう。移動する道中で、領民生活や所領の状況を自分の目で確かめる事が出来ます。他にも、狩りで使用する【】も、外交手段としての道具ともなりました。

茶器と同様、諸大名がこぞって、織田信長に【】を献上したのは有名な話です。

 

以上のように、娯楽と言えど【鷹狩り】は多くのメリットが詰まったスポーツだったのです。

 

織田信長の鷹狩りは独特だった!?

信長公記には、1577年11月に参内した様子書かれており大の鷹狩り好きぶりが伺えます。

十一月十八日、信長は鷹狩り装束で参内した。お供の衆はいずれも思い思いの服装をし、おもしろい形の頭巾をかぶって興を添えた。皆の狩杖(かりづえ)などまで金銀を塗ってあった。結構だったことはいうまでもない。

太田牛一著 中川太古訳 『現代語訳 信長公記』より一部抜粋

上記のように、信長公記には何度も鷹狩の様子が書かれており、天皇のへの参内の際にも鷹狩の衣装で行ったのは驚きで、もう好きすぎて今で言うところの【鷹狩り沼】である。

 

織田信長の鷹狩りの方法は独特で、『信長公記』には、天台宗の高僧である天沢(てんたく)和尚が、信長の鷹狩りの様子を武田信玄に語った記述があります。

まず、獲物を見つける段階から20名ほどに「鳥見(とりみ)の衆」を命じて2人1組で組ませます。そして、雁や鶴などの獲物を見つければ一方が見張りをし、片方がその場を離れて報告に行くと言う独創的な方法でした。

また、弓と槍を持った「六人衆」が信長の身辺に控えてもいました。

最終的に狙う獲物を定めれば、騎馬のものが、藁(わら)に虻(あぶ)をつけて回しながら近寄り、鳥の注意を引き付けます。信長自身が鷹を持って馬の陰に隠れて近づき、飛び立つところへ、走り出て鷹を放ち、狩りをさせるそうです。

それだけではなく、鷹が獲物を捕獲して着地する地点近くに、予め農夫を装った「向かい待ち」が待機しており、獲物である鳥を押さえます。

 

この手順を見る限り、狩りと言うよりは戦闘訓練と言ったほうがシックリ来るかもしれません。まさに、獲物を発見したところから報告するまでの流れ、まさしく密偵のような動きで、報告までの時間や獲物の様子などから狙いを決めるのでしょう。

 

また、鷹を放つのが鷹匠ではなく信長自身が放つなど、鷹に対してもある程度知識を持っていたことが予想されます。これを聞いた武田信玄も、信長が合戦上手であることを納得した様子だったというから、鷹狩=戦と言うのはあながち嘘でないことが分かります。

 

特に、実力主義を掲げていた織田家では、この鷹狩こそが絶好の出世のチャンスだったともいえるのかもしれません。

 

あわやで大惨事!?徳川家康と伊達政宗の【鷹狩り】

鷹狩りは、鷹場と呼ばれる狩りが許可された場所がありました。

徳川家康は、伊達政宗に鷹場を与えており家康と政宗は隣同士の鷹場だったそうです。鷹狩は他の鷹場での狩りはご法度とされていました。これが発覚すれば大事件になり、罰せられるそうです。

 

そんな中、鷹場の隣同士の伊達政宗と徳川家康との間で事件が起きます。

伊達政宗が隣の徳川家康の鷹場へと侵入してしまった上に、家康の鷹場と知りつつ獲物の鶴を取っていたそうです。ちょうどその時、徳川家康一行が通り過ぎ、間一髪で、鷹場を越境したことがバレず、政宗は事なきを得たそうです。

ちなみに、このときの家康は、何やら急いでいるようにも見えたという。

 

そんな冷や冷やした伊達政宗が、後日の江戸城で家康に謁見した時、意外な事を聞かされることになります。

家康が「先日は、その方の鷹場に無断で入って鷹狩りをしてしまった」と、告白してきたのです。つまり、政宗からすれば、自分だけが鷹場を越境していたつもりが、まさかの家康も越境していたことを知るのです。

その話を聞いて、政宗も自身の行動を暴露する。「じつは自分も上様(徳川家康のこと)の鷹場で鷹狩りをしてしまった」のだと。しかし、それだけではなく、家康が自分の鷹場へ入ってきたことを知っていたが、あえて見逃したことも付け加えた。つまり、将軍である徳川家康に恩を売ったのです。

しかし、古狸の家康はさらに上を行き、正宗が家康を見かけたとき、家康自身も政宗の存在を知っていたが見逃した事にしたのです。「ああして見て見ぬふりをしてくれたので、騒動にならずに済んだ」と言ったのです。

つまり、こちらも政宗の存在を知っていて、政宗に見逃してもらったわけではないとアピールしたのでした。

 

鷹狩りは農民には迷惑なものだった

信長や家康だけではなく多くの大名が楽しんだ鷹狩りですが、娯楽・スポーツとして人気があったのですが、農民たちの間では非常に迷惑だったようです。特に、鷹場の近くの農民たちは少なからず被害に合っていました。

例えば、鷹場の近くでの小動物の捕獲の禁止祭りの囃子など獲物が逃げる可能性のある音はなるべく出さないようにと命じられていました。大名からしてみれば、遠い鷹場までいって獲物が一羽もいなければ、家臣の面目も立たなるのです。

 

中には、他の場所で捕獲した獲物を連れてきて行うやらせの鷹狩りもあったようで、いつの世も上司に気を遣う家臣たちが顔が思い浮かぶようです。

立場が違えば、鷹狩りも迷惑なものでしたが一番の被害者は、せっかくとった獲物を横取りされる鷹なのかもしれません。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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