スペイン王位継承問題とは?エムス電報事件から普仏戦争開戦までをわかりやすく解説
1870年7月、フランスはプロイセンに宣戦し、普仏戦争が始まりました。
開戦のきっかけとしてよく知られているのが、ビスマルクが公表した「エムス電報」です。その背景には、1868年に始まるスペイン王位継承問題がありました。
スペインでは革命によって女王イサベル2世が追放され、政府が新しい国王を探すことになります。そのなかで、プロイセン王家と同じホーエンツォレルン家に属するレオポルトが候補となりました。
フランスが強く反発したため、レオポルトは国王候補を辞退します。ところが、フランス政府は今後もレオポルトの擁立を認めないという保証を、プロイセン王ヴィルヘルム1世に求めました。
この要求をめぐる会見報告をビスマルクが編集して公表したことで、フランスとプロイセンの関係が急速に悪化したのです。
今回は、スペイン国内の王位問題が、なぜフランスとプロイセンの戦争へつながったのか、1868年のスペイン革命から順を追って見ていきます。

スペイン王位継承問題とは?
イサベル2世の治世には軍人による政変が繰り返され、政治の腐敗や政府への不満も強まっていました。さらに1860年代後半には経済不安も重なり、女王を支持する勢力は次第に弱まっていきます。
1868年9月、軍人や反政府勢力が蜂起すると、政府軍は敗北し、イサベル2世はフランスへ亡命しました。こうしてスペインでは、新しい政治体制をつくることになります。
革命後に成立した臨時政府は、すぐに共和政へ移行したわけではありません。
1869年に新しい憲法を制定し、立憲君主国として国を立て直そうとしました。そのためには、憲法のもとで統治する新しい国王を迎える必要があります。
新国王の選定で中心的な役割を担ったのが、軍人・政治家のフアン・プリムです。しかし、スペイン国内の政治勢力が受け入れ、ヨーロッパ諸国からも強く警戒されない王族を見つけるのは簡単ではありませんでした。
そのなかで1870年に浮上したのが、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のレオポルトです。
ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家とは?
レオポルトは、プロイセン王家と同じホーエンツォレルン家の一員でした。
ヴィルヘルム1世の息子や兄弟ではなく、南ドイツを本拠とする別系統のホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の出身です。
プロイセン王家がプロテスタント系だったのに対し、ジグマリンゲン家はカトリック系でした。そのため、カトリック国スペインの国王候補にもなり得る人物だったのです。

※ナポレオン3世自身、当初からレオポルトの即位に強硬姿勢をとっていたわけではありません。候補が公になるとフランス政府や世論などの反発で態度を強めました。
スペイン政府とビスマルクの思惑
レオポルトを新国王の候補として持ち出したのは、国王を探していたスペイン側でした。
当初、レオポルト本人やその家族は、スペイン王位への立候補に積極的ではありませんでした。しかし、ビスマルクはレオポルトの擁立に外交上の利点を見いだし、その実現を積極的に後押しします。
ビスマルクは、次のような外交上の利点を見込んでいたと考えられます。

レオポルトがスペイン国王になれば、プロイセンにとって外交上有利に働くだろう。
フランスが強く反発しそうだが…
ビスマルクは、フランスの反発が予想されるなかでも、レオポルト本人やその家族、ヴィルヘルム1世の同意を得ようと働きかけました。こうして1870年6月、レオポルトはスペイン王位を受け入れる意思を示します。
なぜフランスは強く反発したのか?
1870年7月初め、レオポルトの立候補が公になると、フランス政府と世論は強く反発しました。
フランスの東では、普墺戦争に勝利したプロイセンが北ドイツ連邦を形成し、ドイツ統一を進めていました。さらに、南西に位置するスペインでもホーエンツォレルン家の王族が国王になれば、フランスは東西を同じ王家に挟まれることになります。

もちろん、レオポルトがスペイン国王になったからといって、スペインがプロイセンの支配下に入るわけではありません。両国の間に軍事同盟が成立していたわけでもありませんでした。
それでもフランス政府は、レオポルトの即位を安全保障と列強としての威信に関わる問題と考えます。
ルクセンブルク危機以降、フランスではプロイセンの台頭への警戒が強まっていました。レオポルトの立候補も、こうした状況のなかで大きな外交問題となります。
仏外相は議会で強い態度を示し、レオポルトの立候補を受け入れない方針を明らかにします。
レオポルトは国王候補を辞退した
フランス政府は、プロイセン駐在の仏大使ベネデッティを通じて、ヴィルヘルム1世にレオポルトの立候補を取り下げさせるよう求めました。
ヴィルヘルム1世は、この問題をめぐってフランスと戦争になることを望んでいませんでした。
レオポルトの父カール・アントンも事態の深刻化を避けようとし、1870年7月12日、息子に代わって候補辞退を発表します。これによって、レオポルトがスペイン国王になる可能性はいったんなくなりました。
フランス政府の当初の目的は達成され、外交危機は収束するかに見えました。しかし、フランス政府はレオポルトの辞退だけでは十分ではないと判断します。
なぜフランスはさらに保証を求めたのか?
フランス政府が懸念したのは、いったん辞退したレオポルトが、後日ふたたび国王候補となる可能性でした。そこでフランス政府は、今後もホーエンツォレルン家の立候補を認めないとヴィルヘルム1世が保証するよう求めます。
レオポルト擁立の交渉が秘密裏に進められていたこともあり、フランス側は候補辞退だけでは問題が再燃する可能性があると考えていました。
一方、ヴィルヘルム1世は、将来にわたる保証を求めるこの要求を拒否します。
こうして国王候補の問題は、レオポルトが即位するかどうかではなく、フランスとプロイセンのどちらが譲歩するかという威信の問題へ変わっていきました。
エムス電報事件とは?
エムス電報事件とは、1870年7月、フランス大使とプロイセン王ヴィルヘルム1世の会見内容を伝える報告を、ビスマルクが短く編集して公表した事件です。
公表された文章は、フランスとドイツ側の双方に「自国が侮辱された」という反発を引き起こしました。その結果、スペイン王位継承問題をめぐる外交対立は急速に悪化し、普仏戦争が始まる直接のきっかけとなります。
ベネデッティとヴィルヘルム1世の会見
当時、ヴィルヘルム1世は温泉保養地エムスに滞在していました。
1870年7月13日、フランス大使ベネデッティはヴィルヘルム1世と会い、今後もホーエンツォレルン家からスペイン国王候補が出た場合、その擁立を認めないと保証するよう求めました。
ヴィルヘルム1世は、将来にわたってそのような約束をすることはできないとして、この要求を拒否します。
その後、ベネデッティは再び国王との会見を求めましたが、ヴィルヘルム1世はこれを断りました。一連の経過はベルリンにいたビスマルクへ電報で報告されます。
ビスマルクは電報をどう編集したのか?
ビスマルクは、ヴィルヘルム1世とベネデッティの会見について送られてきた報告を、短く編集して公表しました。
元の報告には、ヴィルヘルム1世が将来にわたる保証を拒んだ理由や、レオポルトの候補辞退を確認した経緯、側近の助言を受けて再会見を行わないと決めたことなども書かれていました。ビスマルクはこうした経緯を削り、フランス大使が将来にわたる保証を要求し、国王が大使との再会を拒んだという部分を短く並べました。
その結果、公表文は、フランス側の要求とプロイセン王の拒絶が強く印象に残る文章となりました。ビスマルクは、プロイセンの強国化を警戒するフランスとの緊張を利用し、こうした形でフランスを挑発したのです。
なお、元の報告文とビスマルクの公表文は、ドイツ歴史研究所ワシントンの史料サイト「German History in Documents and Images」で比較できます。
フランスとドイツの世論が反発した
ビスマルクが編集した文章は、新聞を通じてフランスとドイツ各地に広まりました。
フランスでは、プロイセン王がフランス大使を追い返したかのように受け止められ、国家への侮辱だという反発が強まります。一方のドイツ側では、フランス大使がプロイセン王への繰り返し要求に対する反発が広がりました。
こうして両国で相手への反感が強まり、政府も妥協しにくい状況になっていきました。
フランスはプロイセンへ宣戦した
エムス電報の公表後、フランス政府は開戦へ向けて動き始めました。
政府内や議会には慎重な意見もありましたが、プロイセンがフランス大使を侮辱したという受け止め方が広がるなかで、外交交渉を続ける余地は狭まっていきます。
1870年7月19日、フランスはプロイセンへ宣戦しました。
フランス側が宣戦したことで、プロイセンは自国がフランスから攻撃されたという立場をとることができました。また、プロイセンと軍事協定を結んでいたバイエルンなどの南ドイツ諸国も、プロイセン側として戦争に参加します。
これは、ビスマルクにとって大きな意味を持ちました。プロイセンと南ドイツ諸国が共通の敵と戦うことで、ドイツ統一を進めやすくなったからです。
とはいえ、エムス電報事件は普仏戦争が始まる直接のきっかけにすぎません。
- 普墺戦争後のプロイセンの台頭とドイツ統一の進展
- 南ドイツ諸国とプロイセンの軍事的な結びつき
- プロイセンを警戒するフランスの安全保障と威信
- 両国で高まったナショナリズムと相互反発
こうした問題が重なるなかで、スペイン王位継承問題をめぐる対立も深まっていったのです。
一方で、レオポルトが候補を辞退した時点では、外交危機が収束する可能性も残されていました。普仏戦争は初めから避けられなかったのではなく、双方が要求と反発を強め、妥協できる範囲が狭まった末に始まった戦争だったのです。


