島津久光による文久の改革と八月十八日の政変
1862年(文久2年)に上洛した島津久光は、朝廷への公武合体推進するために働きかけます。この働きかけが実り、久光は勅使を擁して江戸に下り幕政改革を求めます。
幕府は勅使を受け入れ、幕政改革を行います。
この一連の改革を文久の改革と呼ばれています。
島津久光による幕政改革【文久の改革】
幕府は勅使で取り決めた通り、安政の大獄で処分を受けてた松平慶永を政事総裁職にし、徳川(一橋)慶喜を将軍後見人職にして幕政に復帰させます。また、京都の治安維持のために京都守護職を置きそこに松平容保をその任にあてました。
さらに、参勤交代制度の緩和策も出し幕府の根本にメスを入れます。
この文久の改革は、朝廷と外様大名の薩摩藩の要求を受け入れる形で始まりましたが、政治能力の多極化を招き、終わってみれば幕府滅亡を促進させる結果となりました。
1863年に勅命で取り決められていた、14代将軍・家茂の上洛が実行されると、長州藩尊攘派の権威が高まりを見せ、公武合体派の盟主となった薩摩藩の政治的進出に対抗して、急進派の公卿と結び、背後から朝廷を動かし始めました。
朝廷は幕府に攘夷の決定を迫り、1863年5月10日をその日と決めさせますが、長州藩は同じ日に下関沖合を通過した諸外国船を砲撃し、いち早く攘夷を実行に移しました。
八月十八日の政変
孝明天皇は攘夷論者でもあったが、そんな急進的な長州藩の行動に頭を悩ませてもいました。そこで天皇は薩摩藩らに長州藩を京へ追放するための要請を出します。この要請を受けた両藩は、8月18日の早朝に兵を京都御所の宮門を囲み、長州藩を宮門警護の任から解任させることに成功させます。
これは薩摩藩が、公武合体派の公卿と内通しながら京都守護職の地位にあった松平容保と連携して、尊攘派を一掃するために起こしたクーデターとして、八月十八日の政変と呼ばれています。
この政変によって、朝廷周辺の情勢は一変し、三条実美らの急進的な尊攘派の公家7人が京都を追放されて、長州藩士らともに長州へ落ちのぶることになります。
これを【七卿落ち】といいます。
急進的な尊攘派である長州藩の失脚より、島津久光は幕政をリードするかと思われましたが、世の中うまくは行きせんでした。ここで薩摩藩にターニングポイントが訪れます。
それが、薩英戦争でした。
薩英戦争の勃発
事の発端は、1862年の生麦事件でのイギリス人商人の殺傷事件でした。
この事件に際し、薩摩藩は犯人引き渡しに応じなかったため、1863年7月にイギリス艦隊が鹿児島を砲撃する薩英戦争が始まります。この戦いで両者とも相当な被害を受け、共に実力を再評価する契機となり、討幕の動きに呼応して両者が急速に接近していく事になるのです。
また、島津久光は、諸大名が朝議や幕議に参加するために、新たな政治制度を設けることを提案して、参与会議を発足しました。久光を含め、徳川慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保などの有力大名で構成されました。
しかし、横浜鎖港問題※を巡り、同じく開国論者だったはずの慶喜と久光が会議内で激しく対立します。
最終的に孝明天皇が薩摩藩の権勢を警戒して慶喜に味方したこともあり、島津久光が譲歩する形で幕府が港を封鎖する方針で決定します。しかし、その後の徳川慶喜との不和が解消されることがなく、参与会議が機能しなくなり解体することになります。
参与会議が機能しなくなった事で、薩摩藩が推進してきた公武合体策は残念ながら破たんすることになりました。