人物伝

突然、豊臣家に転職した徳川家の実力者、石川数正

 

戦国時代は忠義が重んじられて二君に仕えないと言うイメージが昔ありましたが、このブログを書き始めてからは、以外にもコロコロと主君を変えている人物が結構いる事が分かります。

しかし、自分の気分で他家へ転職しているのかと言うとそうでもなく、その人なりの理由がそこにはありました。あるものは主家が滅ぼされ臣従する者や不遇な扱いを受け去る者など理由は様々です。

 

今回の主人公・石川数正は事情が少し複雑で、主家である徳川家から転職する理由がハッキリと見当たらず、ある日突然に豊臣家に転職をしてしまいました。周りの人や研究者たちもどうして?と首を傾げています。

 

徳川家康は家臣に対して公平だった!!

 

家康率いる徳川家には、多くの有能な家臣達が集まっていました。

織田信長や豊臣秀吉と少し違うのが、自ら滅ぼした一族の遺臣も多く召し抱えていたのが家康らしいところでした。そのうえで、家臣に対する扱いが公平で徳川家でも特に三河武士たちは結束が高いと言われていました。

しかし、その結束の高い三河武士団から一人の出奔者を出してしまいました。

それが、今回の主人公・石川数正で、徳川家の西三河の家老まで登り詰め、家康の信任が厚かったにもかかわらず、豊臣秀吉の元へ去っていきました。

 

外交能力に長けていた石川数正

 

大久保(忠教)彦左衛門が書いた【三河物語】によると、【石川数正は大髭を風になびかせ、若君を鞍の前に乗せ奉り(中略)通られるときの見事さ】と記しています。

1560年の桶狭間で今川義元が敗れ、その今川家から独立を果たすのですが、息子・信康と正室・築山殿は今川氏真の下に人質としていました。弱体化した今川家を攻めようにも、人質が居ては動くに動けない、そんなジレンマの中で今川家との人質交渉にあたったのが石川数正でした。

そして、無事に二人を救出し岡崎城へ帰還する様子が【三河物語】に記されています。

徳川家での石川数正の立場

 

石川氏は【清和源氏】の流れを汲み、源義家の孫【義基】が河内国石川郷に居住した事から【石川氏】が始まったとされています。その後、石川氏は三河へ移り住み、代々松平家に仕えるようになりました。

その流れで数正も家康に仕えており、石川氏は徳川家臣団でも大が付くほどの古参で、家康が今川義元の下へ人質に差し出された際には、28人の付き人の内の一人として数正も付き従っています。

 

その後、今川氏から独立をした家康は織田信長と同盟をし、今川氏真との人質交渉も行ったのも石川数正で、その実績が買われ【西三河の旗頭】を父・家成から引き継ぐことになりました。

交渉術にたけ、多くの交渉ごとにい使者として活躍したのですが、その任務が皮肉にも豊臣秀吉との出会いに繋がることなります。

 

豊臣秀吉は女性だけではなく有能な人材も大好き!

 

豊臣秀吉は大の女好きとして知られていますが、実は女性だけではなく有能な人材に出会うと、他家の重臣であっても【お誘い】をしてしまうのです。ようするにヘッドハンティングです。

そのスカウト歴も節操がなく、石川数正だけではなく、本多忠勝にも声をかけており、伊達家の重臣・片倉綱景や上杉家の直江兼続、小早川隆景・立花宗茂などそうそうたるメンバーが、秀吉のヘッドハンティングを受けていました。

また、欲しい人材が居たらなりふり構わず、プレゼント攻撃をかけるそうです。

 

石川数正と豊臣秀吉の出会い

 

この記事では石川数正ですが、秀吉との初めての出会いは秀吉が信長のポストをかけて柴田勝家と戦った【賤ケ岳の戦い】の戦勝祝いの席でした。1583年のこの祝いの席で徳川家康が使者として秀吉の元へ送ったのが、石川数正その人だったのです。

一説によるとこの時すでにスカウトが始まったとも言われていますが真相は、定かではありません。1584年に徳川家康と羽柴秀吉が【小牧・長久手の戦い】で対峙し、織田信勝の独自講和で不完全燃焼で幕を閉じ、戦後処理の交渉役にやはり石川数正が担当します。

その翌年、1585年11月に突然、石川数正徳川家康の元から出奔し、豊臣秀吉の元へ行ったのでした。

 

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石川数正の徳川家・出奔の理由

 

出奔理由としては、憶測の域を脱していないのが現状なだけに、多くの歴史作家たちは面白おかしく脚色をつけているようです。

そのことを踏まえつつ、現在では大きく2つの説があります。

 

徳川家康と豊臣秀吉との板挟みが限界だった

これは家康と秀吉の板挟みの末に疲弊しし出奔したと言う説。

要するに単純に数正が家康を見限って秀吉に付いたとされるものです。これには、【小牧・長久手の戦い】で、秀吉と決戦をするものとそうでない者との意見の衝突で数正が次第に孤立していったとされています。

加えて、秀吉が家康に対して上洛を要求した際には、家康側の死者として数正が度々派遣され、東海道を往復されるだけで成果もあげられない状況で、次第に疲弊し家康の元を去りました。

 

家康の命令で豊臣家へスパイとして潜入

もう一つは、徳川家康の命を受け、豊臣家のスパイとして家臣となった説です。

つまり、数正は家康を裏切ってはおらず、双方同意の下豊臣家へ行ったのではないかと言うのです。ハッキリとした出奔の理由が謎のままである事から、私たち歴史好きの間でもこのスパイ説を押している人も多いそうです。

 

家康の影武者が原因

トンデモ説ですが、家康の影武者である世良田二郎三郎元信が立場を利用して信康を殺し、松平(徳川)家を乗っ取ったためという説があるようです。

この説によれば、家康が何らかの形で不慮の死を遂げ、松平家存続のために世良田元信が君主に挿げ変わっていた。いずれは跡取りである信康が徳川家を継ぐものと信じていたが、信長の処断要求に乗じて処刑されると、家康と松平家に対し強い忠義心を持っていた数正は、これに激しい怒りを覚え出奔したのではとされています。

この説は、創作の部分が多いようで否定されていますが、物語としてはちょっと面白いと思うのは私だけでしょうか?

 

考察すればするほど謎が深まるばかり…

 

三河家臣団の結束力は強かったのですが、徳川家康三大危機とも言われている【三河の一向一揆】では、結果的に家臣団を2つに引き裂かれました。家臣団の多くが一向宗門徒であり、家康の友とも言われた本多正純でさえも、反家康側へと寝返ったくらいでした。

それでも、本多忠勝は改宗までして家康に従う忠義ぶりを見せました。そして、石川数正も門徒でしたが一揆側には就きませんでした。その信仰をも勝る家康への忠義がありながら、単に家康を裏切る事なんてあり得るのだろうか?と言う疑問が残ります。

 

また、小牧・長久手の戦いで石川数正は、小牧城留守居役を任されています。

この大事な一戦に主君の不在時に城を預かる大役は、絶対的な信頼を置ける人物でないといけません。まして、敵【秀吉】と通じていれば即刻負け戦になるのですから…

そんな戦いの際に留守居役を任され、戦後の交渉も含めて取り仕切ったのは石川数正なのですから、どう考えても徳川家康と石川数正は運命共同体だったはずです。狸オヤジの家康のことですから、裏切る可能性をわずかでも見逃すわけはないはずですが…

上記の事を考えれば考える程、スパイ説がシックリ来るところがあります。

秀吉ほどの人物をスパイをするのですから、中途半端なことはできません。そのため、思い切って家康と縁を切り秀吉の直臣となり、豊臣家の家臣として徳川家康をサポートする役目を担ったのではないかと考えます。

 

石川数正の子孫たちの間では…

 

最後に石川数正の子孫が書いた本の内容に触れてみましょう。

 

家康公については、岡崎の方々にしても悪く言う人は誰もいません。

しかし、太閤秀吉についてはあまりよく言われませんでした。数正は、家康公の元を離れ秀吉の元へ行ったのでなぜかと思う事はあります。徳川家康に不満があっての出奔ならば、私たち子孫に何らかの事が伝わっていた可能性があります。しかし、実際は秀吉の方を悪く言っていたと伝えられています。

要するに子孫たちの間では、出奔には何か裏があったのではと勘ぐってしまうそうです。

やっぱり、石川数正は自らを犠牲にして豊臣家へ行ったのでしょうか?

 

この話だけでも、ドラマができそうな話ですが、真相は秀吉・家康・数正の心の中と言う事で、私たちは楽しく想像力を膨らませておきましょう。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。