江戸時代

参勤交代とはどのような制度だったのか?

徳川家光によって、各大名家が2年ごとに江戸へ参勤し、その後国元へ帰り交代をする制度を参勤交代と言います。

鎌倉時代に、御家人の鎌倉への出仕し、将軍に対する服従儀礼として始まったのが起源とされています。

参勤交代とは?

この制度で、各藩の大名は1年おきに江戸と国元を行き来しなければいけので、国元へ戻る場合は、正室と世継ぎは江戸に在中しなければいけませんでした。

江戸と国元までの旅費や江戸の滞在費はすべて自己負担し、正室と世継ぎは江戸に滞在しなければならない(実質の人質)だったため、諸藩の軍事力低下に大きな役割を与えました。

この参勤交代が、260年余りにも及ぶ長期政権・江戸時代を築く礎にもなりました。

参勤交代の制定と思惑

参勤交代の原型は、豊臣秀吉が戦国大名たちの妻子を大坂に住まわせたことを参考にしたとされています。江戸時代になると、幕府に媚びるため各大名家が将軍を謁見するために江戸へ行く風習ができ始め、幕府もそれに乗じ妻子を江戸に住まわせる制度を作りました。

この制度を1635年に徳川家光が武家諸法度によって参勤交代として制度化をしていきました。

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参勤交代の目的と特例措置

家光が参勤交代制度を作った理由としては、藩の力を無くし幕府対して謀反を起こさせないためでした。なまじお金があると、武器を作り幕府に対して謀反を起こす可能性があるので、この制度によって藩の力を削いでおく必要がありました。

しかし、何事にも例外はあり、蝦夷との交流を独占していた松前藩は、参勤交代で江戸へ行っていたら蝦夷地で反乱が起きてしまいます。そのため、松前藩は5年おき、江戸の在住期間は4か月とされていました。

さらに、対馬藩も貿易のために参勤交代の機関を短くしてもらっていたようです。

他に、長崎奉行を務めていた肥後藩と福岡藩は交互に100日と言うように期間が決まっていたようです。また、水戸藩のように江戸に極端に近い藩などは、江戸にいつも藩主がいたため、参勤交代はしませんでした。

さらに特例措置として藩主が就任したばかりや、一揆などの事件が起きたときは参勤交代が先延ばしされることもありました。

参勤交代の費用

各藩は全国各地にあったので、参勤交代で江戸へ行く日数や費用は様々でした。

江戸から近い藩は、1日や2日くらいの行程で済みましたが、九州地方の薩摩藩や熊本藩などは、江戸に向かうだけで2か月以上かかってしまう事がありました。

加賀藩の参勤交代

では、参考のために加賀藩の参勤交代ルートを紹介してみましょう。

加賀藩は、北国街道と呼ばれる街道を通り、越後~信濃を経て中山道経由で江戸へ向かいます。このルートで、金沢から江戸まで14日かかりました。

参勤交代は、4月に江戸へ行くことになっていますが、他の大名に出会ったら挨拶をしなければいかず、急なトラブルも起こらないとは限らないので出発の半年前からルートチェックは欠かせませんでした。

金沢~江戸間の14日と言うのは、何もトラブルが無かった時の行程で、このルートは難所が多く、天候などで足止めを食らうこともしばしばあったそうです。

大名行列

参勤交代は、藩主が江戸の赴任するようなもので、その家老やお抱えの料理人、医者なども同行する大所帯でした。約10万石くらいの中堅大名は約240人くらいの大名行列が幕府より推奨されていましたが、藩主たちは目立ちたいがために人数などを増やして盛大な行列を行っていたようです。

 

特に加賀藩は100万石もあるので、さすがは加賀藩の大名行列と言わせるために約4000人の大名行列を行ったとも言われています。さすがに、家臣や身の回りの人達で4000人は無理があったようで、半分はアルバイトを雇い見かけの行列を作ったとも言われ、参勤交代だけで5億円を使ったとも言われています。

ちなみに、江戸に藩主が行っている間の国元は、城代家老と言われる人が藩主の代わりに藩政を行っていました。

参勤交代の経済効果

宿場町の繁栄

参勤交代が始まった事により、大名が江戸に向かう街道途中の宿場町は大変な賑わいを見せるようになりました。さらに、各藩は大名行列のスムーズな行進のために、街道の整備や橋の建設などのインフラ整備を行いました。

江戸文化の逆輸入

参勤交代によって、国元を離れて江戸にやって来たことで江戸の文化が全国に広まることになりました。さらに、参勤交代でやって来た武士たちが江戸に集まり、江戸の人口が100万人を超える程になりました。

参勤交代制度の終焉

徳川家光により参勤交代が制度化されて200年以上が経ち、1853年に浦賀に黒船が来航し、日本に対し開国を迫り幕府が混乱状態になって行きます。

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そのため、これからは各藩が軍事力を強化し、諸外国に立ち向かうべきだと言う意見が出始め、その軍事力の弱体化を促進していた参勤交代を緩める動きが出てきました。しかし、諸外国に立ち向かえるほどの軍事力を各藩が付けたら幕府にとっては内なる敵を作ることになります。

そこで、文久の改革時に参勤交代を3年に一回とし、江戸の滞在日数を100日に減らし、さらに人質として江戸にいた妻子を国元へ帰すことが許されました。

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しかし、第二次長州征伐時に幕府軍が敗北したことによってその権威が失墜すると、参勤交代をしない藩が出始め、大政奉還に伴い幕府と共に参勤交代制度が廃止されました。

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歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。