鎌倉時代

元寇でモンゴル軍を2回も退けた執権・北条時宗

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1274年と1281年、当時大陸を支配してたモンゴル帝国が2度にわたり日本を進攻してきました。モンゴル帝国は、歴史上最大級の規模を持った国で、当然その艦隊も当時では最大規模でした。

私たちはこの歴史的出来事を元寇や蒙古襲来と習いました。

その頃の日本は鎌倉時代で北条氏による執権政治が確立された頃で、当時の執権は8代目北条時宗。そんな超大国モンゴル帝国の襲来を2度も退けた時宗はこの国難にどのようにして立ち向かったのでしょうか?

 

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皇帝・フビライ=ハンによるの大陸侵攻計画

 

モンゴル帝国は、日本政府【鎌倉幕府】に対して修好を求めていましたが、その内容が対等なものではなく、しかも上から目線の高圧的なものでした。そんな態度に、礼を重んじる日本人は当然拒否、そこでモンゴル側は外交策から日本への武力弾圧へシフトしていきました。

世界最強の大国と言えど、内陸から興った国だったので、海を挟んだ島国・日本へ兵力や物資を渡海させる術に乏しかったのでモンゴルは、日本侵略に先んじて日本に近い地域である、高麗や樺太を制圧していきます。

こうして日本に近い拠点を再圧し、渡海の準備を整えて日本へ侵攻しました。

 

モンゴル帝国の皇帝はフビライ=ハンは、この日本や周辺地域を支配下におさめ、中国大陸の南の【南宋】を侵略しようと考えていました。また、東方見聞録の【黄金の国ジパング】の言い伝えから、金を求めて日本に侵略したとも考えられています。

 

北条時宗の誕生と8代執権の就任

 

北条時宗は、1251年に相模国鎌倉で生まれました。

父は北条時頼で、腹違いの兄には後の二月騒動で対立した時輔がいました。正室との間に生まれた時宗は、幼いころから後継者として育てられ、7歳にで元服した時には、当時の皇族将軍の宗尊親王から一文字賜り、時宗と名乗りました。

 

1260年に時宗は、将軍及びに御所を守る役職に任ぜられて、その翌年には、泰盛の異母妹の堀内殿を妻にするなど、後継者としての地位を築き上げていきます。

1264年、14歳になった時宗は7代執権を補佐する役職に就任して、その2年後には幕府転覆の疑いで、宗尊親王を将軍の地位から下ろし、京都へと追放します。

 

その2年後の1268年の正月に、時宗の運命の出会いでもあるモンゴル帝国からの通商を求める使節団が大宰府に訪れます。同じ年の3月には、わずか18歳で8代執権となった時宗は、安達泰盛や平頼綱の有力御家人の補佐を受けて対外政策に当たります。

それと同時期に、時宗の兄・時輔が、時宗の執権就任不満を持ち、反旗を翻す【二月騒動】を収め、北条宗家の権力基盤が安定しました。

一方で、元の国書を始め朝廷が返信の書状を作成する案や、高麗の軍事組織・三別抄からの援軍要請を無視し、鎌倉幕府は総力を挙げて不服従の構えとる事を決めます。

 

蒙古襲来【元寇】

 

元の要求を退けたのには、時宗が師事した僧・蘭渓道隆や無学祖元らが元と敵対する南宋の出身であった事や、日本を訪れる朝鮮や中国の人々から各地の受けた惨劇の情報を得たと言う説があります。

実際に華北地方のほとんどがモンゴル帝国の手に落ちており、かつては徹底交戦を見せていた高麗にもフビライの娘婿である忠烈王を中心とした親元派の政権が樹立しており、日宋討伐にも協力的な空気が大陸や朝鮮半島に流れていました。

こういった国際情勢を把握したうえで、時宗と家臣たちは元の国書を無視したようです。

 

それと同時に1272年には、六波羅探題で勤務していた異母兄の時輔と評定衆で一族出身の時章と教時を暗殺し、1274年には【立正安国論】を書いた日蓮を佐渡に流すなど、北条得宗家の権力を強化する政策を次々に打ちます。

 

日蓮を流した年に元軍が襲来しますが(文永の役)御家人たちの活躍で追い返します。

翌年には、降伏勧告のために来日した元の使節団を処刑し、毅然とした態度を示します。

文永の役での経験から時宗は、石累の建設兵や兵糧の調達など国防強化に努めました。

 

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5年後の1279年に再び来日した元の使節団も斬首して、時宗は元軍との徹底抗戦の構えを取ります。この時に、異国警固番役の拡充で元軍の再襲来に備えつつ、高麗への逆侵攻の計画を立てますが、軍事費の問題でそれはかないませんでした。

また、後嵯峨天皇の遺言で時宗と幕府が治天の君を決める裁定に介入するなど、より強力に統一された体制を時宗は確立しました。

 

1281年に再び元軍が襲来し、時宗は自らの名で作戦指示を出して、御家人に指揮をまかせます。元・高麗の連合軍は、石垣で防衛体制を整えた武士団の反撃に押され、神風と呼ばれる台風にも助けられ、連合軍を追い払います。

 

元寇後の問題と北条時宗の死

 

2度の日本侵略が失敗に終わった元では、日本に攻めてもいい事が無いからやめたほうが良いと言う世論が高まりました。

それでもフビライは、諦めずに日本へ服従を迫る使者を送り続けたと言います。

そんなフビライの周りでは、戦費の負担が耐えられなくなり反乱が相次ぎました。
そのため、日本への侵略を取りやめらることになりました。

 

一方で、元軍を追い返した日本では、弘安の役の翌年に、北条時宗は鎌倉に円覚寺を作り元寇の戦死・溺死者を弔うと同時に、九州の警備を続けさせました。

しかし、元寇で活躍した御家人たちは、かさむ戦費と幕府からの恩賞の不支給から徐々に不満を貯めていきます。防戦一方だった元寇では、敵から土地やお金等を得ることができず、幕府が恩賞を与えたくても元手がありませんでした。

幕府も、それは重々承知で、何とか御家人たちをなだめようと、改革案が立てられますが、度重なる心労で北条時宗が天に召されてしまいます。

享年34歳でした…

 

その後は、生活に困窮した御家人を救おうと、9代執権・北条貞時による【永仁の徳政令】を出しますが、その場しのぎにしかならず、かえって御家人を苦しめる結果になり幕府への不満が高まっていきます。

こうした中で、後醍醐天皇が幕府の衰退に付け入り、鎌倉幕府は滅亡へと進んでいくことになります。

 

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miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。