平城京に住んでいた人々がどんな生活を送っていたのか、どんなことを考えていたのか?
出土したものから調べていきたいと思います。
平城京の出土品
平城京は一国の政治を行う中心地であり、様々な木簡や役人たちの仕事道具でもある硯や墨、筆など様々なものが出土しています。
では、地方ではどうでしょう?
実は地方にも文字が浸透していた形跡が見つかっています。
土器に所有者の名前や地名が書かれていたり吉祥句(きっしょうく=縁起の良い句のこと)が書かれていたりするようです。このように文字や記号の書かれた土器を墨書土器と呼びますが、この土器が地方でも多く発見されていることからかなりの広範囲の地域で文字が書かれていたと考えられています。
つまり、この頃には既に一般の人にもかなりの範囲に文字を書く文化が広まっていたと見られている、ということです。この文字文化の広がりは律令体制を全国的に施行させたことと無関係ではありません。
まだあります。国名や税の種類、品名や送り主などが書かれた木簡、都へ運ばれた物資(塩や漆など)に和同開珎。時に税の調・庸で納める品を自国で生産できない場合は、その国の特産品を売却したうえで中央政府が求める品をわざわざ買い揃えていたこともあるようです。物資が集まり、人も集まるので市や宿泊施設なんかも発達します。当時の活気ある様子が出土した品々から伺うことが出来ますね。
その一方で穏やかではない品も見つかっています。胸にくぎが刺さった名前付きの人形、男との別離を望む胸を書いた皿などです。呪いの人形は当時の法律で禁じられており、実際にやってしまうと最高で死刑となることもありました。また、当時は災害や病気の原因は人の罪や穢れにあると信じられてきました。これら悪霊や病気を祭の道具にうつし、水に流すことでお祓いの儀式をします。これらのお祓いや呪いの道具が平城京の排水路から複数見つかっています。
平城京に住んでいる人たちは中央役人だけでなく、そこに仕える人々もいました。太政大臣で300人、位が一位の者が100人の使用人を持てるということもあり、一部の有力者の屋敷には多くの人が暮らしていただろうと想像できます。赤の他人が同じ屋敷で暮らすとなると、そりゃあ色々な事があるでしょう。 そこら辺の人の心の機微はやはり変わらないようです。